よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

「産むってそんな。そんなことをしたら、私の立場は……」
 横井の体は震えていた。顔は真っ青だ。
「私と横井さんは待合室の、この長イスの上でデートを重ねた。そう、私たちが今座っているこの場所です。ここで私たちは幸せな時間を共有し、そのとき横井さんは私に、こんなことをいった。私はそれを今でもはっきり覚えているわ」
「えっ、俺が何を――」
 どうやら横井は忘れているようだ。
「二十六年前に私と出逢いたかった。そして、でも今からだってとも――あの言葉はやはり嘘だったのね」
 噛みしめるようにして、恭子は言葉を出した。
「嘘じゃない、あれは嘘じゃない」
 横井が叫んだ。
「あのときは本当に、そう思ったんだ。でも、今は――男にとっていちばん責任を持たなければならないのは、家庭であり妻子であるってことに気がついて。だから決して嘘なんかじゃない。あのときは本当にそう思ったんだ。信じてほしい、恭子ちゃん」
 横井の口調が哀願調に変った。
「あのときはって、便利な言葉ですよね。どんな嘘も引っくり返してしまう。本当に便利な言葉。でもよくわかったわ。横井さんの自分勝手な心が。わかった上でいうけれど、私は赤ちゃんを産みます。横井さんが何といおうと産みます」
 恭子の言葉に横井が思いがけない行動に出た。イスから飛びおりて、床に額をこすりつけた。土下座だ。
「頼む、恭子ちゃん。お願いだから子供は堕ろしてくれ。そうでないと私は家を追い出される。行き場がなくなってしまう。独りになってしまう」
 それでも横井は、恭子と一緒に暮そうという言葉は口にしなかった。ひたすら哀願して床に額をこすりつけるだけだった。
「心配しなくていいわ、横井さん」
 凛とした声を恭子が出した。
「私の年を考えれば、これが子供を産める最後のチャンスのようなもの。だから、私は一人でこの子を産んで、一人で育てていくつもり。横井さんの世話になろうなんて爪の先ほども考えていないから」
 とたんに横井が、がばっと顔をあげた。
「本当なのか今の言葉は。本当にそうなのか、恭子ちゃん」
 叫ぶような声をあげた。
「本当よ。私は横井さんの世話になるつもりはない。シングルマザーとして、この子と二人で静かに暮していくつもり。私にはちゃんとした仕事もあるし、心配なんかいらない。もう横井さんに会うこともないと思うし」
 はっきりと恭子はいった。
「大先生――」
 横井が怒鳴った。
「今の言葉、ちゃんと証人になってくれますよね。そのための立会人なんだから。ちゃんと証人になってくれますよね」
「そりゃあ、まあな」
 こういうより仕方がなかった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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