よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

「じゃあ、そういうことで。とにかくそういうことで。力になってやりたいのは山々だけど私は入り婿の身だから、なかなか」
 横井はさっと立ちあがり、
「じゃあ、恭子ちゃん、これで解決ということで──くどいようだけど、あのときは本当にそう思っていたから、本当に。嘘じゃないから」
 嗄れた声をあげたとき、何かの音が響いた。
 あれはケータイの着信音だ。
 麟太郎が恭子の顔を見ると、首を左右に振っている。そうなると……麟太郎と恭子の視線が横井に注がれた。
「あやっ」という奇妙な声をあげて横井の手が懐に入り、おずおずとケータイを取り出して耳にあてた。
「大した用事じゃないよ。もう終ったから、すぐに帰るよ」
 掠れた声でいって、ケータイを懐にねじこんだ。
「持ってたんだ、ケータイ。持ってたけど、私に電話されるのが嫌で黙ってたんですね」
 低すぎるほどの声を恭子があげた。
「ケータイから恭子ちゃんとの関係を疑われたら、ややこしいことになると思って。ただそれだけで悪気はないから、悪気は」
 顔を歪めて横井はいい、軽く頭を下げて早足で二人の前から離れていった。
 すぐに診察室から麻世と八重子がやってきて、二人の前に立った。
「あの野郎、最低。やっぱり少しはシメてやったほうが」
 絞り出すような声を出す麻世に、
「麻世、そういうことは」
 麟太郎は、たしなめの言葉を出す。
「わかってるよ、私も大人だから、そんなことは」
 そんな麻世の言葉にかぶせるように、
「恭子さん。本当にあれでよかったのかな」
 麟太郎は落ちついた声を出す。
「はい。この子は一人で産んで、一人で育てます。あの人の世話にはなりません。あんな最低の人の世話には」
 ほんの少し語尾が震えた。
「そうか。実をいうと俺も八重さんも、それがいちばんいい方法だと思っていた。子供がいれば最初は大変かもしれんが、淋しいことは決してない。あんな無慈悲な男は放っておいて、どこか遠くで静かに暮せばそれがいちばん幸せだと思うよ」
「えっ……」
 麟太郎の言葉に恭子が、妙な反応をした。
「私は遠くで暮すなんて一言もいってませんよ、大先生。私は今まで通り、笹屋とは目と鼻の先の、あの中古マンションでこの子と一緒に暮すつもりです」
 びっくりするようなことを、口にした。
「そうなると横井さんには……」
 八重子がくぐもった声を出した。
「針の筵(むしろ)だと思います」
 恭子はぽつりといい、
「あの人が男の身勝手さを押し通した以上、私も女の意地を貫きます――もう少し優しい対応をしてくれたら引っ越してもいいと思っていたんですが、さっきのあの人の態度を見てやめました。あの人には針の筵に座ってもらいます」
 淡々とした口調で恭子はいって、ふわっと笑った。が、目だけは吊(つ)りあがっていた。麟太郎にはその笑いが鬼の顔に見えた。
「あいつの家にも押しかければいいんだよ。あのときはそう思ったけど今はって……あいつがいったように、便利な言葉を使って」
 珍しく麻世が理屈っぽいことをいった。
「そうね。ありがとう、麻世さん。本当に麻世さんには助けてもらって」
 恭子は子供を抱くように下腹に両手をそえた。三人に向かってぺこりと頭を下げた。頭をあげた顔は笑っていた。
 今度は柔らかな母親の顔だった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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