よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

 玄関の時計を見ると四時を回っていた。
 伸之(のぶゆき)の胸に、ほっとするような安堵感(あんどかん)が広がる。
 そろそろ、大先生がくるはずだった。
 往診日は毎週水曜日、麟太郎(りんたろう)と看護師の八重子(やえこ)はそれぞれ自転車に乗って、井上畳店まできてくれる。
 畳店といっても若者の畳離れで、ここ二十年ほどの間に需要は激減し、そのあおりを受けて伸之のところも五年前に店をたたんだ。今はわずかな年金と預金を取り崩しての生活だったが、それもいつまでもつのか……。
 子供は男の子が二人いたが、当然のことながら所帯持ちで孫もいて、わずかな助けはあるものの、それ以上甘えることはできない状態だった。
 問題は妻の頼子(よりこ)だった。
 三年前に脳梗塞(のうこうそく)を発症して倒れ、現在は寝たきりの生活を送っていた。
 伸之は奥の寝間に入る。
 介護ベッドの上で頼子は両目を閉じている。どうやら眠っているようだ。
「頼子、もうすぐ大先生がくるから……」
 ベッド脇のイスに腰をおろし優しく声をかけるが、後の言葉がつづかない。麟太郎がきたとしても打つ手はないのだ。全身状態を診て、世間話をしていくくらいしか術(すべ)はない。それでも、麟太郎がくるというだけで、何となく安心感を得ることができるから不思議だった。
 玄関の戸を開ける音がして、
「井上さん、おじゃまするよ」
 という麟太郎のよく通る声が聞こえた。
 伸之が腰をあげるまでもなく、麟太郎と八重子が寝間に入ってきた。勝手知ったる他人の何とかである。
「どうかな、頼子さんの容体は」
 気さくに麟太郎が声をかけてくる。
「これといって、変りは……」
 わずかに首を振りながら答えると、
「そうだな。そういうことだよな」
 恐縮したような麟太郎の声が返ってきた。
「何か変りが出るような、特効薬とか治療法が見つかればいちばんいいんだが、すまねえな、井上さん。俺たちの力不足で本当に申しわけない」
 麟太郎は伸之に頭を下げた。
「そんな、大先生、そんなことをされたら。頼子がよくならないのは、決して大先生のせいじゃありませんから」
 伸之の言葉遣いはいつも丁寧だ。そのへんが同じ職人でありながら、風鈴屋の徳三(とくぞう)とは大違いである。
「そういってもらえると、ほっとするけど。しかしまあ、情けねえことに変りはないなあ。とにかく、診させてもらうよ」
 麟太郎はこういって八重子に合図をして、寝ている頼子に向かい、
「頼子さん、体の状態を診させてもらうからね」
 優しく声をかけて、まず脈を取る。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number