よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

 眠りから覚めたようで、頼子の目がゆっくり開くが目のなかに生気は見られない。ぼんやりした目の光だ。
 麟太郎は三十分ほどかけて、頼子の全身状態を丁寧に診る。
「異状はないな」
 診終えてから一言こういい、
「病人に対して異状なしというのも変だが、そうとしかいいようがねえから」
 麟太郎は頭を掻(か)いた。
「井上さん、小水の出具合の数値を教えてもらえますか」
 八重子が口を開いて、伸之はベッド脇の小テーブルの引出しに入れてある書きこみ表を取り出す。
 寝たきりの頼子は尿道に管を通され、そこを通った尿はベッド下のビニール袋にたまることになっていた。ビニール袋には目盛が印刷されていて、毎日の量を計って記載するのも伸之の役目だった。
 手渡された書きこみ表に目を通しながら、
「二日目の記載がもれてますね。今後はしっかりと記入を……」
 八重子がやんわりと、たしなめの言葉を出すと、
「まあ、いいじゃねえか。三年も介護をしていれば、ついうっかりということもあるだろうから。老人介護の秘訣は、適宜、手を抜いてほどほどに、この一言だからよ。あんまり一生懸命やりすぎると、介護者の身がもたなくなっちまうからよ。それに……」
 といって麟太郎が助け舟を出したが「それに」につづく後の言葉は口から出なかった。
「そうでした。井上さんが倒れでもしたら、それこそ大変ですから。失礼しました」
 八重子は素直に謝りの言葉を出した。
 伸之には持病があった。軽い狭心症(きょうしんしょう)で、時折ではあったが心臓部に疼痛(とうつう)が走った。店をたたんだ原因のひとつにはこれもあった。
「ところで頼子さんは、いつもこんな状態なのかな」
 心配げな口調で麟太郎がいった。
「そうですね。認知症が大分進んでいるようで、はっきり受け答えをしてくれることもありますが、大体はこうしたぼんやりした状態が多いですね」
 苦しそうに伸之は答えた。
 頼子の場合、脳動脈の左側に血栓が生じて意識不明となり救急車で病院に搬送されて一命は取りとめたものの、体の右半分に麻痺が残った。
 そのために動くことが困難になり、機能回復のリハビリをつづけたが一年ほどしても元にはほとんど戻らず、頼子は気力を失った。何もしないでベッドに横たわるだけの毎日が多くなり、その結果、認知症の顕著な症状が見受けられるようになって、今に至っている。頼子は今年七十二歳、伸之は七十六歳になった。
「いちばん辛(つら)いのは頼子さん、そしていちばん苦しいのは井上さん。ここは何とか我慢をしてもらって、気長にほどほどに、行こうじゃないですか」
 しんみりした口調で麟太郎がいった。
「はい。それしか方法はないと、肝に銘じて頑張るつもりです」
 細い声でいう伸之に、
「長つづきさせるためには、気晴らしがいちばんなんだが、井上さんは何か――」
 励ますような言葉を麟太郎はかけた。
「そんなことは何も。贅沢(ぜいたく)できるような身分でもないですし」
 ゆっくりと首を振った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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