よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

「そりゃあ、いけねえな。じゃあ、今夜一緒に飲みに行こうじゃないか。幸いというと怒られるけど、頼子さんは動けない体だから徘徊(はいかい)する心配はねえし、ここは今夜だけ、ちょっと留守番ということで我慢をしてもらって」
 気合を入れるように麟太郎はいい、
「井上さん、近頃飲み会には?」
 覗(のぞ)きこむように顔を見た。
「いいえ、こいつが倒れてからは一度も」
 首を大きく横に振る。
「そいつはいけねえ。人間引きこもりがつづくと気力も体力も駄目になり、ひいては病人の介護もなおざりになっちまう。そんなことになったら、いちばん迷惑をこうむるのは頼子さんだ。ということで、きまり」
 そっと伸之の肩を叩(たた)いた。
「また、田園ですか。夏希(なつき)さんの顔を見に」
 呆(あき)れたような声を八重子があげた。
「そう、あそこには夏希ママという、絶世の美女がいるからよ。ママの顔を見るだけで、男なら元気が湧いてくること間違いなしだ。といっても……」
 麟太郎は寝ている頼子の顔をちらっと眺め、
「すまんな、頼子さん」
 ぼそっというが、頼子は目を閉じていて何の反応も示さない。
「それに田園は飲み代も安い。つまり恩に着る必要はまったくねえ。だからよ、井上さん。ここは一番」
 おどけたようにいって、ふわっと笑った。
 その顔を見ながら、伸之は行ってもいいような気になった。たまにはこういうことがあっても罰は当たらないだろうと思った。
「いいですよ、お供しますよ」
 はっきりした口調でいい、
「ですが、今夜は頼子の大好きなカレーをつくるつもりでいますので、その仕度に少し時間がかかります。それを食べさせてからということになりますが」
 ほんの少し困った表情を浮べる。
「何時なら」という麟太郎に「八時半ぐらいなら」と伸之は答え、その時間に『田園』に集合ということになった。
「ところで、頼子さんはカレーが好物なのかね」
 麟太郎の問いに、
「大好きですね。ちょっと変ったカレーですけどね」
 伸之は両頬に、ほんの少し笑みを浮べる。
「ちょっと変ったカレーって、いったいどんなカレーなんだね」
 興味津々の表情を麟太郎が浮べた。
「長くなりますので今は。今夜また、ゆっくりと話しますから」
 伸之は笑みを浮べたままいう。
「今夜話してくれるのか。そいつは楽しみだな。夏希ママの顔を見るより楽しみだな」
 麟太郎は、顔をくしゃっと崩して嬉(うれ)しそうにいってから、
「じゃあ、ついでといっちゃあ何だけど、井上さんの心臓のほうを診てみようかいね」
 真顔になって小さくうなずいた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number