よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

 八時半ちょうどに田園に行くと店はかなり混んでいたが、麟太郎はすでにきていて、奥の席で手を振っていた。
 奥まで歩いて麟太郎の前に座ると、すぐに店の女の子がオシボリを持ってやってきた。ビールとオツマミの追加を麟太郎が頼む。
 運ばれてきたビールで、まず乾杯。
「毎日の介護、本当にご苦労さんです」
 こんなことを麟太郎がいって、二人はコップを合せた。しばらく雑談をしていると、中年の女性がやってきた。これが麟太郎のいっていた、夏希だ。
「大先生から介護の話は聞いています。大変なことで頭が下がります」
 夏希は本当に頭を下げてから、伸之のコップにビールを満たす。
「井上さん、厄除(やくよ)けのつもりで一気に」
 夏希の言葉に伸之はコップのなかのビールを、一気に喉の奥に流しこんだ。久々のビールだった。うまかった。
「うんまいなあ」
 思わず言葉が飛び出した。
「そう、たらふく飲んで、今夜だけは苦労を忘れて」
 小さく拍手をしながら、夏希が微笑んだ。
 麟太郎がいった通り、綺麗(きれい)だった。
 華があった。
 人を惹(ひ)きつける何かがあった。
 でもと伸之は思う。可愛らしさは頼子のほうが上。綺麗さには負けるけれど、可愛らしさなら――伸之は頼子が大好きだった。
 そんなことを考えていると扉が開いて、新しい客が入ってきた。
「あらっ」
 と夏希が小さく声をあげ、
「すみません。またあとで、こさせてもらいますから」
 二人に頭を下げてその場を離れ、新しい客のほうに歩いていった。
 麟太郎を見ると、苦虫を噛(か)みつぶしたような顔だ。新しい客が麟太郎を見つけて、ひょいと手を挙げて近よってきた。
「麟ちゃん、久しぶり」
 低いが、よく通る声でいった。
「やっぱり、お前。ここに通ってきてるんだな」
 麟太郎は、ぼそっと答える。
「麟ちゃんほどじゃないから、まあ、大目に見てほしいな――じゃあ連れがいるようだから、また今度ゆっくり」
 二人に頭を下げて、新しい客は離れていった。
「大先生、あの人は確か看板屋の……」
 伸之も知っている顔だった。
「そうだよ。看板屋の瀬尾章介(せおしょうすけ)だよ。俺の同級生でもあり、ここの夏希ママをめぐる俺の恋敵でもある」
 悔しそうな顔で麟太郎がいった。
「恋敵ですか!」
「先日、俺に堂々と宣言しやがった。ここの夏希ママに惚(ほ)れていると……しかしなあ」
 麟太郎は小さな吐息をもらし、
「あいつは体が細くて背が高いし。顔のほうも苦み走っているというか、男前だし。どこからどう見ても俺に勝目はなあ」
 それが本音かどうかわからないが、麟太郎は情けなさそうな顔でこういった。そんなわかりやすい様子を見ながら、この人はやっぱり、やぶさか先生で、庶民派だ。伸之は、そう思った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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