よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

「でも大先生、恋というのは、姿形できまるものじゃないですから」
 慰めるようにいうと、
「おう、違いねえ。で、井上さんは、恋というものは何できまるもんだと思っているのかね。そこのところを教えてほしいんだがよ」
 麟太郎が身を乗り出してきた。
「それは……」
 といって伸之は考えこむ。
「すみません、私は恋の経験というのがあまりなくて、具体的なことを訊(き)かれると困ってしまうんですが」
 頭を掻きながら伸之はいう。
「井上さんは今も昔も、頼子さん一本槍ですか。いや、羨しい限りです。というか、立派です」
 本当に羨しそうな表情を、麟太郎は浮べた。
「いえ、単に不器用なだけですから、そういうことには。それに、こんな年寄りですから……ただ」
 言葉を濁した。
「ただ、何ですか。密(ひそ)かに心に思っている人でもいると」
 すぐに訝(いぶか)しげな口調で麟太郎が訊いてきた。
「実はいます……」
 思いきって肯定の言葉を出した。
「えっ、いるんですか。そんな人が。真面目一方の井上さんでも」
 感嘆の声を麟太郎があげた。
「いや、そんなんでは――」
 という言葉にかぶせるように、
「相手はどこの誰なんだろうね」
 麟太郎の興味津々の声が飛んだ。
「キッチン・タマイの――」
 すぐに麟太郎が反応した。
「キッチン・タマイって、あの浅草署裏にある洋食屋の……すると井上さんの思い人っていうのは、あそこの若奥さんの玉井理恵(たまいりえ)さん、そういうことなのか」
 また身を乗り出してきた。
「いや、大先生。話は最後まで聞いてもらわないと、誤解を生じますから」
 伸之は両手を出して広げ、麟太郎を制するような仕草をしてから話をつづけた。
「私が気になっているのは、若奥さんの理恵さん一人ではなく、ご主人の重信(しげのぶ)さんも含めた夫婦の二人です」
 ぽつぽつと話し始めた。
『キッチン・タマイ』は戦前からある店で、今の主人の玉井重信は三代目だった。
 カツレツやクリームコロッケ、それにオムライスなどをメインにした下町の洋食屋として、この界隈(かいわい)では人気が高かった。
 値段を安く抑えて庶民派の店として盛りあげたのは先代の忠信(ただのぶ)だったが、忠信夫婦は五年ほど前に相次いで亡くなり、今は重信、理恵の夫婦が跡を引き継いで切り盛りしている。二人ともまだ三十代なかばの若さだった。
「私は重信さん、理恵さん夫婦の働きっぷりを見るのが好きで、時々、唯一の贅沢としてあの店に行くんですが。あの二人は実によく働くというか、気持がいいというか。こんな年寄りをいつも微笑(ほほえ)ませてくれます」
 こういって伸之は話をしめ括(くく)った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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