よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

「そういうことか。いわれてみれば、あの夫婦の働きっぷりは気持が良くて、見ていて爽やかに感じる。井上さんのいう通りのような気がする。それに重信さんはともかく、理恵さんは丸顔で目が大きくて、かなり可愛い。人気の秘密は、そのあたりにもあるんじゃねえのかな」
 麟太郎の言葉に伸之の胸が、ざわっと音をたてて騒いだ。
「実は、その点も大切で――」
 いい辛そうに伸之は言葉を切ってから、
「あの、理恵さんなんですが、うちの頼子の若いころに似ているというか、何というか。だから余計に」
 恥ずかしそうだったが、一気にいった。
「あっ」と麟太郎が声をあげた。
「そういわれれば、似ているな。頼子さんも大きな目で丸顔で――確か井上畳店に嫁いできたときは、周りから美女と野獣と陰口を叩かれて」
「そうですよ。同年代の男たちから、散々苛(いじ)められたものです――実をいえば、苛められるたびに嬉しさと幸福感は増していきましたけどね。ここだけの話ですけど」
 いかにも嬉しそうに伸之はいう。
「井上さんは頼子さんに、べた惚れなんだな。だから余計に、あの二人に入れこんで」
「私なんかが入れこんでも、あの二人には何の得もないでしょうけど。私のほうは、あの二人を見ていると、若いころの自分と頼子を見ているようで。頼子も理恵さん同様、働き者でしたから」
 伸之は視線を宙に漂わす。
「その、頼子さんの大好きなカレーの話はどうなってるんだい――いや、そもそも、井上さんと頼子さんの馴初(なれそ)めは、どんなふうだったのか。そのあたりも聞きてえよな」
 麟太郎の言葉に、伸之の心が明るくなった。灯がともった。
 カレーの話はともかく、こんな年寄りの馴初めに興味を持つ人間など、そうそうはいない。優しさだと思った。麟太郎は何とか話を盛りあげて、自分を元気づけようとしている。老老介護の毎日を送る自分を、有難いと思った。嬉しかった。
「黴(かび)の生えたようなつまらない話ですけど、大先生、聞いてくれますか」
 申しわけなさそうにいうと、
「もちろん、お聞きします」
 麟太郎は力強く首を縦に振った。
 伸之と頼子が初めて出逢ったのは新宿の歌声喫茶で、五十年ほど前のことだという。
 伸之は歌声喫茶などには興味はなかったが、客の一人から只券をもらい、後学のためにと出かけて行ったのだが、そこに頼子がきていた。伸之も一人、頼子も一人だった。
 店内はかなり混んでいて、いくつも置かれた丸テーブルの周囲には客があふれていた。頼子は伸之の隣に座っていた。
 その夜はロシア民謡の特集で、伸之と頼子は肩をくみながら『カチューシャ』や『黒い瞳』、『ともしび』などを熱唱した。誰もが知っているような歌ばかりなので伸之にも何とか歌うことができた。
 その回は一時間半ほどで終り、そのとき伸之が頼子を誘ったのは、一緒に肩をくんで歌った連帯感からではなかった。一目惚れだった。頼子を一目見て、伸之の胸は喘(あえ)ぎ声をあげた。丸顔で大きな目――とにかく可愛かった。この女性と一緒にいたい。伸之の胸はそう訴えて、騒いでいた。
「どこかで、お茶でも飲みませんか」
 と恐る恐るいう伸之に、
「歌声喫茶から出て、普通喫茶・・・・に移動するって。変といえば、変な話ですね」
 こんな妙な理屈を口にしたが、それでも頼子は伸之についてきた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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