よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(前編) カレーの味・前

池永 陽You ikenaga

 近くの喫茶店に入り、
「ロシア民謡はいいですね」
 と伸之がコーヒーを前にしていうと、
「トロイカや、ともしびの歌はいいけど、ロシア民謡は嫌い」
 頼子は訳のわからないことをいった。
 伸之が困った表情を浮べると、
「ロシアは、この前の戦争のとき、日本との約束を破って酷(ひど)いことをしたから」
 怒ったような顔をしていった。
 どうやら、この頼子という女性、かなりの臍曲(へそまが)りのように思えた。そして、女性には珍しく理屈好きなようだったが、伸之にとってそんなことはどうでもよかった。何がどうあろうと、一緒にいるだけで幸せだった。
 それから二人はつきあい始めたのだが、頼子の臍曲りはなかなか直らなかった。
 頼子は茨城県の水戸市出身だった。
 あるとき伸之が当時人気のあった『水戸黄門』のドラマを面白いというと、
「あれは嫌みなじいさんが権力を笠に着て、弱い者苛めをしているだけ」
 頼子は、ばっさりと斬ってすてた。
 一事が万事こんな調子だったが、伸之は頼子のそんな面が嫌いではなかった。臍曲りなことをいうとき、頼子はかなり無理をしているように見えた。それが逆に可愛く思え、伸之はますます、頼子が好きになった。
 水戸の高校を卒業した頼子は上野のアパレル関連の問屋に勤めていて、伸之の住んでいる浅草とは目と鼻の先の寮から通っていた。そんな地の利もあって二人は急速に親しくなり、やがて結婚した。伸之が二十九歳、頼子は二十五歳だった。
「水戸黄門様は権力を笠に着た、嫌みなじいさんとは――それはいい、実にいい、頼子さんという人は、かなり面白い」
 話を聞き終えた麟太郎は、手を叩いて喜んだ。心から嬉しそうだった。
「それで、結婚してから頼子さんの性格は穏やかになったのかな」
「少しは穏やかになりましたが、頼子と私は性格が正反対というか何というか――まあ、だから、お互い飽きもしないで面白おかしく、仲よくやってこられたような気もしますね」
 伸之がこういうと、
「性格が正反対というのは?」
 と麟太郎が訊いてきた。
「ざっくりいえば、私は気弱で優しくて、頼子は気が強くて芯も強い――でも頼子の良さは、どんな臍曲りのことをいっても、その後はさっと水に流して笑っていましたから。たまに喧嘩(けんか)をしても、次の日はこれもニコニコしていましたね」
 伸之も笑いながらこういい、
「とても太刀打ちなんかできません。もっとも私のほうも、ぼうっとしていたわけではなく相当気は遣っていました。簡単にいえば、私の気の弱さと頼子の気の強さが、うまくひとつに溶けあった。そういうことでしょうかねえ」
 首を何度も縦に振ってうなずいた。
「なるほどなあ、臍曲りの女性と気遣いの男か。伸之さんの話を聞いていて、俺はうちの麻世(まよ)のことを思い出しましたよ」
 しみじみとした口調で麟太郎がいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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