よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

 玄関の戸を開けると異臭がした。
 微(かす)かに汚物の混ざったにおいだ。
 そう思った瞬間、それが自分の家のにおいだということに伸之(のぶゆき)は気がついた。家にこもりきりで慣れきってしまったにおいが、久方ぶりに外出をしたせいで鼻に蘇(よみがえ)った。つまりこれは頼子(よりこ)のにおいなのだ。そう考えると気にならなくなった。
 伸之は奥の寝間に真直ぐ歩き、
「ただいま、頼子。大先生に誘われて、久しぶりにお酒を飲んできた。一人にさせて悪かったね」
 ベッド脇のイスに腰をおろし、柔らかな声で語りかける。
 が、ベッドのなかの頼子には何の反応も見られない。両目をしっかり閉じて、身動(みじろ)ぎもしない。眠っているのかもしれない。そうなると独り言ということになってしまうが、伸之はかまわない。というより、話しかけずにはいられない。話しつづければ……。
 まれにだったが頼子の感情のない目の光に、何かが宿るように感じることがあった。そのとき、頼子の唇が微かだったが震えるのを伸之は確かに見ている。
 あれは理性の光だ。
 頼子は正常に戻った。
 そして何かを訴えようとしている。
 わずかな時間のことではあったが、伸之はそう思いたかった。いや、思っている。
 麟太郎(りんたろう)もよく、こんなことをいっていた。
「テレビを見せてあげてください。歌も聞かせてあげてください。そして何よりも、井上さん自身の声で話しかけてあげてください。思いは必ず頼子さんに届くはずです」
 だから伸之は頼子に話しかける。多いときは、一日数時間以上にもわたって。伸之はもう一度、頼子の笑った顔が見たかった。怒った顔が見たかった。
「あなた、もう少し、しっかりしなさいよ」
 と、どやしつけてもらいたかった。
 伸之は頼子に話しかける。
「今日、私と頼子に関する、カレーの話を大先生にしたよ」
 はっきりした口調でいうが、むろん、頼子は何の反応も示さない。
「ほら、頼子と私が初めて喧嘩(けんか)をして、お前が臍(へそ)を曲げてしまった、あのときの一件だよ」
 伸之はなおも言葉をつづける。
「そして、キッチン・タマイに行って、あそこの特製カレーを食べた……」
 といったところで、それまで固く閉じられていた頼子の両目が、うっすらと開いた。ざわっと伸之の胸が騒いだ。
「頼子、あのカレーライスの一件だよ」
 叫ぶような声を伸之はあげた。
 だが、頼子の目の光には宿るようなものは見受けられない。感情のない目が宙を見つめているだけだ。
「頼子、私を見てくれよ。何か喋(しゃべ)ってくれよ。うなずいてくれよ」
 泣くような声を出した。
 伸之の目は潤んでいた。
 悲しくて悲しくて仕方がなかった。
「頼子っ」
 体がひとまわり小さくなった。
 肩を震わせて伸之は嗚咽(おえつ)をもらした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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