よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

「さてと」と伸之はいって、テーブルの脇に置いてあるウスターソースに手を伸ばす。そして、たっぷりとカレーの上にかける。
「あっ」
 頼子の口から、悲鳴のような声があがった。
「伸之さん。カレーに、ソースをかける派なんだ」
 驚いた口調でいった。
「あっ、ごめん。さっさとソース、かけちゃって」
 困惑ぎみにいう伸之に、
「謝罪無用――実は私もカレーにはソースかけ派だから。でもそういう人って少数派だから、ちょっと驚いてしまって」
 頼子の言葉で伸之の胸に、ぱっと灯(あか)りがともった。そんな顔をちらっと見て、頼子もウスターソースをカレーの上にたっぷりとかける。
「この食べ方がいちばん、おいしいんだけど。これをやると田舎者と笑われそうで、なかなかね。それにお店の人にも悪いし」
 少し肩を竦(すく)めた。
「ここのオヤジさんなら大丈夫だよ。客の食べ方に、とやかくいう人じゃないから」
 という伸之の言葉が終らぬうちに、
「とやかくいいてえけど、我慢してるだけだ。単なる、お目こぼしだから有難く思え」
 厨房(ちゅうぼう)から野太い声が飛んだ。
 この店の二代目の忠信(ただのぶ)だ。
「じゃあ、なんでテーブルにウスターソースが置いてあるんだよ」
 伸之が軽口を飛ばす。
「そりゃあ、おめえ」
 忠信はちょっとつまってから、
「ここが、ざっくばらんな下町だからよ――いいから、さっさと食え。横須賀仕込みの海軍カレーだからよ」
 忠信はいってから、大きな咳払(せきばら)いをした。
 頼子のスプーンが皿に伸びた。ソースのたっぷりかかったカレーをすくい、口のなかに入れた。
「これ、おいしいっ」
 感嘆の声をあげた。
「うまいだろ、ソースに合ってるだろ」
 思わず口に出す伸之は、目頭が熱くなるのを覚えた。
「子供のころに家でよく食べた、カレーの味を思い出させるし」
 頼子は、ぱっと笑顔になった。
 花が咲いたような笑顔だと思ったとたん、伸之は頼子のこんな笑顔を初めて見たことに気がついた。可愛(かわい)かった。この笑顔を毎日見たいと思った。
「ライスカレー」
 洟(はな)をずっとすすって伸之がいうと、
「そう、ライスカレー。うちのお父さんも、いつもそういってた」
 嬉しそうに頼子が後をつづけた。
「子供のころは、カレー粉がまだ貴重品で、カレーのなかに小麦粉を入れたりして。おかげで、できあがるカレーは味が薄いうえにとろみがなくて、ソースでもかけなければ――」
 伸之も嬉しそうにいうと、
「とても食べられたもんじゃない」
 また頼子が後をつづけた。
 伸之の胸が温かなもので一杯になった。
 初めて頼子と意見が一致した。
 好みの食べ物が重なった。
 頼子と結婚したい。
 このとき伸之は心からそう思った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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