よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

 気持よく眠る頼子の顔をベッド脇のイスから眺めて、伸之はほっと一息つく。
 今日はデイサービスの入浴日で、訪れてきた介護士数人と頼子を車に乗せて指定の病院まで連れていき、入浴をすませて帰ってきたばかりだった。
 さすがに心地いい疲れを感じているのか、頼子は穏やかな寝顔を見せている。入浴後で体が火照るのか、両腕は掛布団の上に出していた。
 伸之がその頼子の右肘を凝視する。皮膚が盛りあがって、分厚いタコになっている。色も茶色っぽく変っている。
「すまないな、頼子。苦労ばっかりかけさせて……」
 口のなかだけで、ぽつりと呟(つぶや)く。
 肘のタコは畳屋の勲章のようなものだった。太い針を畳床に突き刺し、その部分に肘を押しあてて力一杯締めつける。畳屋はこの作業の繰返しなので、当然のことに肘の部分は硬くなり、分厚いタコができる。むろん伸之の右肘にもタコはできているが――。
 伸之はそっと手を伸ばして、頼子の右肘に指を触れる。五年前に廃業したといっても、その部分の皮膚は厚く、まだ硬かった。
「私なんかと一緒になったために、こんな……」
 低い声でいってから、
「お前、私と一緒になって幸せだったのか。私は大好きなお前と一緒になれて本当に幸せだったけど、お前は。それに――」
 問いかけるようにいってから、伸之はぎゅっと口を引き結ぶ。
 どれほどの時間が過ぎたのか。
「それに、お前。本当に私のことを好いていてくれたのか。私の押しに負けて、成り行きで一緒になってくれたんじゃないのか」
 伸之は一気にいった。
 永年疑問に思っていたことだった。
 思ったことはずばずばいう性格だったが、頼子は男女の感情にまつわるあれこれは一切口にしない女だった。それが伸之には歯がゆかった。女々しいとは思ったが、これが頼子に対する伸之の永年の疑問だった。
 そして頼子の前で、伸之がこの疑問を口にするのはこの日が初めてだった。
 伸之の視線が頼子の顔から腕時計に移る。針は六時十五分を指している。
「もう行かないといけない。大先生からの誘いで今夜はタマイで一緒に、例のカレーライスを食べることになっている。悪いが少しの間、留守番をしていてくれるか」
 伸之は「どっこいしょ」といいながら、その場にゆっくりと立ちあがる。
 麟太郎から電話があったのは一昨日だった。
「井上さんのいっていた、ソースをたっぷりかけた、そのカレーを俺も食いたくなってよ。どうだい、一緒にタマイへ行かねえか」
 こんなことを麟太郎はいい、伸之はこれを快諾した。麟太郎の気配りだった。有難いと思った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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