よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

 伸之は約束の六時半ぴったりに、キッチン・タマイに到着した。
 奥の席にはすでに麟太郎がきていて、そしてもう一人――あれは確か親類筋の預りものだという麻世(まよ)だ。
「いらっしゃい」という厨房のなかの重信(しげのぶ)の声を耳に、伸之は奥の席に行く。挨拶をしてから対面の席に腰をかける。
「いらっしゃい、井上さん」
 すぐに若奥さんの理恵(りえ)が飛んできて笑いながら声をかけ、トレイの上から氷水を入れたコップを手にしてテーブルの上に置く。
「井上さんもお二人と一緒の、いつものカレーでいいですか」
「お願いします」
 伸之の丁寧な言葉に、理恵は頭を下げてテーブルを離れる。
「お誘いありがとうございます、大先生。実をいうと、頼子のことを聞いてくれる相手など、そうそうはいなくて本当に感謝しています。有難いことです」
 伸之の本音だった。
 いくら人情深い下町といっても、寝たきりになっている自分の老妻のことを延々と話すわけにはいかない。そこへいくと麟太郎なら、気兼ねなく頼子の話ができた。それが伸之には嬉しかった。
「そんなに恩に着ることはねえよ。ただ単に興味本位で、井上さんと頼子さんが大好きだという、ここのカレーが食いたくなっただけだからよ」
 麟太郎はべらんめえ口調でいってから、
「それに、今日は付録も一緒だしよ」
 隣の麻世を目顔で指した。
「付録の麻世です。私はじいさんの食事係をしてるんだけど、このじいさんが私のつくる料理に何だかんだとケチをつけて。だから今日は、ソースかけカレーの勉強のために押しかけてきました」
 ぺこりと頭を下げた。
「ああこれは、ご丁寧に……」
 いいながら伸之は、まじまじと麻世の顔を見る。すぐ近くで見る麻世は美しかった。これは完全に頼子の負けだと認めながらも、じゃあ可愛さのほうは……。
 すぐに答えが出せなかった。この麻世という娘、可愛らしさのほうも相当……だが、頼子を負けさせるわけにはいかない。伸之は胸の奥で唸(うな)る。仕方がない、それなら引き分けだ。これなら文句はないはずだ。勝手な理屈をつけて伸之はようやく自分を納得させる。
「評判通り綺麗(きれい)ですね、麻世さんは」
 ちょっと悔しそうにいうと、
「綺麗なんかじゃないよ、私は。おじさんの目の錯覚だよ」
 意外な言葉がすぐに返ってきた。
「私はガサツで荒っぽくて、男か女かわからない、いいかげんな人間だから」
 とんでもないことを口にした。
「なっ、井上さん。本人には決して悪気はねえんだけど。いいたいことをずばずばいうところが似てると思いませんか」
 麟太郎の言葉に「あっ」と伸之は小さな叫び声をあげる。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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