よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

 麟太郎と一緒に『田園』に行った夜。家に戻ってベッドで眠っている頼子にカレーのことで声がけをした件だ。あのとき、頼子は確かにうっすらと目を開いた。
 それに、まれではあったが伸之の声がけに対して感情のない頼子の目の光に、何かが宿るような感覚――それを伸之は麟太郎にぶつけた。
「何かが宿るような感覚か――それは確かに伸之さんの声がけに対する、頼子さんの反応といえないこともねえ」
 麟太郎はこういってから、
「脳というのはまだまだ未知の分野が多く、正直いってわからねえ部分が沢山ある。死滅した脳細胞が蘇ってきたという症例もあるし、植物状態の患者が数十年ぶりに覚醒したという事例もある」
 大きくうなずいて後をつづけた。
「だから頼子さんの場合も何が起きるかは見当もつかねえ。ある日突然、片言ながら何かを話し出すという可能性も皆無とはいえねえ。ただ、そういうことは極めてまれだと思ってほしい。それを踏まえて、これからも声がけをしてあげてほしい」
 噛(か)んで含めるようにいった。
「そうすると、頼子にもまだ可能性はあると、大先生はそうおっしゃるんですね」
 体を乗り出すようにしていう伸之に、
「極めてまれだということだけは、忘れないようにな、伸之さん」
 苦しそうにいう麟太郎の言葉が終ったとき、理恵がワゴンに載せた三人分のカレーと野菜サラダを運んできた。
「何だか話が盛りあがってますね」
 手際よく料理をテーブルに移しながら、理恵はにこやかにいう。
「じゃあ、いただこうか」
 麟太郎の号令で、器からカレースープを飯の皿にかけ回す。カレー独特のいい香りが鼻を打つ。
 次が、ウスターソースだ。
 まず伸之がソースの入った瓶を手にして、カレーの上にそろそろかける。満遍なくかけ終えたソースの瓶は麟太郎にわたる。麟太郎が終ったら最後が、麻世の番だ。やけに真剣な面持ちで麻世はゆっくりとソースをカレーにかけた。
 三人は両手を合せてから、スプーンを取る。
 黙々と食べ始める。
 伸之は、麟太郎と麻世の様子を窺(うかが)うように見る。二人とも、上機嫌で食べているように伸之には見えるのだが、実際の感想は訊(き)いてみなければわからない。
「大先生、ソースカレーの味は、どんなものですか」
 恐る恐る口に出した。
「うめえよ。しかし、こうしてソースをかけて食べてみて改めて思うのは、ウスターソースというのはかなりの存在感というか自己主張というか。そんな独特の味を持ったものだということに気がついたよ。へたをすれば、せっかくのカレーの風味が、かき消されてしまうこともあるんじゃねえかとな」
 本音らしきことを口にした。
「ということは、大先生は」
 掠(かす)れた声で伸之はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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