よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

「ソースカレーも悪くはねえが、俺はやっぱりカレーの味そのもののほうがいいな」
 申しわけなさそうに麟太郎はいい、
「確かに俺たちの子供のころには、しゃびしゃびのカレーがほとんどでソースをかけたほうが味が引き立ったが、今のカレーは昔とは別物だからよ」
 こんな言葉をつけ加えた。
「何をいってんだ、じいさんは」
 とたんに隣の麻世が吼(ほ)えた。
「私はこの、ソースをかけたカレーのほうが断然好きだよ。カレーとソースが混じりあって、独特のコクをつくり出してるよ。辛さのなかに酸味が加わって、すごくフルーティなかんじだよ」
 麻世から一票入って、これで自分の分を加えれば二対一。何とかソースカレーも捨てたものではないという立場は維持できた。伸之がそんなことを考えていると、
「もっとも私は小さいころ、家にお菜がないということもあって、しょっちゅう、ソースかけごはんを食べていたから、ソースには慣れてるっていうこともあるけどね」
 突然の麻世の宣言で、この一票は保留のようなものになった。しかし、ソースかけごはんを食べていたという、この麻世って娘はいったい……不思議なものでも見るように、伸之が麻世を眺めていると、
「つまりは主観っていうことだと思うよ。好きな味などというのは千差万別。その千差万別の味のなかで、井上さんと頼子さんの味の好みは一致した。これは実に喜ばしいことだと俺は思うよ」
 麟太郎がうまい理屈を述べた。
「そうですね。ことごとく好みが違った二人が、このソースカレーの味で意見が一致したんです。頼子に怒鳴られ、叱咤(しった)されてきた私が何とか一緒に二人でやってこられたのは、このソースカレーの共有感のせいだと思います。実は私……」
 瞬間伸之は黙りこんでから、
「頼子から一度も好きだとか愛しているとか、いわれたことがないんです。それをずっと淋(さび)しいと思っていたのを何とか補ってくれたのが、このソースカレーの共有感なんです。もっとも頼子が私のことを単なる配偶者だと思っていたとしても、私は頼子のことを心から好いていますので、それでいいとも思っています。淋しいことですけれど」
 思いをぶちまけるように、一気にいった。
 そのとき、
「それは違います、井上さん」
 厨房から声が飛んだ。重信の声だ。
 重信が厨房から姿を見せて、三人のテーブルの前に歩いてきた。後ろには理恵の姿もあった。
 不審な面持ちの三人の目が、重信に注がれる。
「頼子さんは、ソースカレーが嫌いだった。俺は親父からそう聞いています」
 とんでもないことを口にした。
「私もその場に一緒にいて、そう聞いています。これは事実です」
 理恵がフォローの言葉を出した。
「しかし、頼子は私にはっきりと……」
 うろたえた口調で伸之はいった。
 頭が混乱していた。
 何がどうなっているのか、わからなかった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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