よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

「このことをいったほうがいいのか悪いのか、俺は随分迷っていました。正直いって、どちらが井上さんにとって幸せなのか、よくわからなかったんです。でも、頼子さんにとって井上さんは単なる配偶者というさっきの言葉を聞いて、これではいけないと思って余計な口出しをしてしまいました」
 重信はこういって、父親の忠信から聞いたという話を語り出した。
 十年ほど前のことだという。
 伸之が組合の旅行で家を空けた夜、ふらりと頼子がやってきて、いつものカレーを注文した。そして頼子はそれを食べ始めたのだが、その上にはウスターソースはかかっていなかった。
「どうしたんですか、頼子さん。ソースはかけないんですか」
 と不審に思った忠信がこう訊くと、
「内緒ですけど、実は私はソースをかけないカレーのほうが好きなんです。主人には隠していますが」
 こんな答えが返ってきた。そして、その理由を訊く忠信に頼子は次のような話をしたという。
 結婚前に二人で花やしきに行ったとき、頼子の心ない一言で喧嘩になりそうなことがあった。そのあと仲直りのつもりで伸之は頼子を誘い、キッチン・タマイにきて二人でカレーライスを注文したのだが、そのとき伸之が食べたのがソースかけカレーだった。
 あまりに嬉しそうにソースをかけるその様子を見て、自分も伸之に合せたほうがと判断して頼子は自分のカレーにも、ウスターソースをたっぷりかけ、そして、いかにもおいしそうにそれを食べてみせた。
「それが、そのときの真相だと、うちの親父はいっていました」
 力強い口調で重信はいった。
「しかし、唯我独尊の頼子さんが、なぜ急にそんなことを……」
 麟太郎が核心をつく問いを発した。
「それは――」
 伸之の顔を重信が真直ぐ見た。
「これ以上、伸之さんに嫌われたくなかったから、私は伸之さんと結婚したいと思っていたから――頼子さんは親父にこういったそうです。はっきりと」
 強い声で重信はいった。
「頼子さんは不器用な人なんです」
 理恵がすぐに声をあげ、
「男女のやりとりが不得手な人で、甘い言葉などとても口にできない、不器用すぎる人なんです、可愛らしい人なんです。本当は頼子さんも、伸之さんのことが大好きだったんです。でも、それがいえなくて」
 叫ぶようにいった。
「ああっ……」
 と伸之が言葉にならない悲鳴をあげた。
「しかし、あれから五十年近く。頼子は外でも家でも、私と一緒のときはカレーにソースをかけて、それをうまそうに……」
 掠れた声でいった。
「そう、頼子さんは五十年近く嘘をつき通したんです。たったひとつの可愛い嘘を守るために。でもそれが頼子さんの伸之さんに対する愛情表現。私にいわせれば、どちらも眩(まぶ)しすぎるほどの優しい嘘です」
 泣きそうな声で理恵はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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