よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第三話(後編) カレーの味・後

池永 陽You ikenaga

「愛されてたんだよ、井上さん、あんたは。やっぱり頼子さんは、この界隈(かいわい)ではいちばん可愛らしい女性だよ。うちの麻世なんか足下にも及ばないほどの」
 麟太郎の言葉に、
「えっ、なんで私がそこに出てくるんだよ」
 麻世の顔が仏頂面になった。何となく頼子の顔を連想させた。
 伸之の脳裏のすべてに頼子の顔が浮びあがった。
「重信さん、カレーを何かの器に入れてくれませんか、早急に」
 重信に向かって叫んだ。
 立ちあがった。
「頼子にここのカレーを食べさせてやりたいんです。ソースのかかっていない、ここのカレーを」
「わかりました。すぐに用意します」
 重信は急いで厨房に向かった。
「頑張って、井上さん」
 理恵が発破をかけるようにいった。
 やっぱり頼子の顔に似ていた。

 冷め具合はちょうどよかった。
 伸之はベッド脇に立ち、カレーの入った器を持って頼子に話しかける。
「頼子、話は全部、タマイの若主人から聞いた。二代目の忠信さんから聞いたという話だ。花やしきに行ったあと、ソースかけカレーを食べたときのことだ」
 伸之は一呼吸おき、
「お前がソースカレーを好きだったといったのは嘘だったんだな。私を怒らせないための可愛い嘘だったんだな。そして、それから五十年近く、その嘘を守るためにお前は好きでもない、ソースカレーを食べつづけた。すまない、本当にすまない。それに気がつかなかった私を許してくれ」
 一語一語、噛みしめるように伸之は言葉を口から出した。
「だから、このカレーを食べてほしい。ソースのかかっていない、タマイ特製の海軍カレーだ。これを食べてほしい。お願いだからこれを食べてほしい」
 伸之はベッドに頼子の上半身を起こし、ゆっくりとカレーの入ったスプーンを口のところまで持っていった。
「頼子っ」
 と叫んだ。
 頼子の瞼(まぶた)が動いた。
 ゆっくりと目が開いていった。
「頼子、これを食べてくれ」
 ふいに両の目に何かが宿るような気配があった。伸之は息を止めた。頼子の顔を凝視した。睨みつけた。
 唇がゆっくり動いた。
「あなたの、好きな……」
 伸之は耳を頼子の口元に近づけた。
「ソースカレーのほうが……」
 それはこんなふうに聞こえた。
 そして頼子は、ゆっくりと笑った。
 あの、花のような笑顔だった。
 伸之の目頭が熱くなった。
 涙がベッドの上に滴った。
「頼子……」
 呟くようにいったとき、頼子の目は徐々に閉じられた。
 うっすらと寝息が聞こえた。

(了)

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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