よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

 話を聞くのも医者の仕事のひとつだ。
 麟太郎(りんたろう)は軽く腕を組んで、元子(もとこ)の話を聞いている。近所の仕出屋の女将(おかみ)で、年は四十代の半ば。ちょうど入り婿である慎太郎(しんたろう)への愚痴が終ったところだ。
「じゃあ、元子さん。胃痛のほうは神経性のものということで、気にしなくていい。むろん、薬なんかはいらねえ。笑って過ごせばすぐ治るからよ」
 麟太郎の健康に対する指針は「よく笑い、よく喋(しゃべ)る」――この一言につきた。だから極力薬は出さない。莫迦(ばか)な話をして、毎日大笑いをして過ごすことが健康には一番。医者になどくる必要はなくなるはずだ。もっともそうなれば、麟太郎の顎は干上がってしまうことになるが。
「そういうことだから、元子さん」
 と席を立つのをうながすような言葉を出すと、
「ところで大先生。パチンコ屋の自転車置場の隅でやっている、屋台のおでん屋に行ったことがありますか」
 妙なことをいい出した。
「二カ月ほど前から、三十くらいの女がやり始めた店で、その女の色香に迷って莫迦な男たちが押しかけて大繁盛という……」
 上目遣いに麟太郎を見た。
「さあ、知らねえな」
 いいながら麟太郎はちょっと身を乗り出す。
「これがうまくも何ともないのに、莫迦な男たちには大受けでしてね。まったく、近頃の男たちときた日にゃあ」
 べらんめえ口調でいう元子に、
「元子さんは、そのおでんを食べたことがあるのか」
 なだめるように麟太郎は訊(き)く。
「ありますよ、一度だけ。うちも客商売ですから偵察がてらにね。そうしたら案の定、味のほうは酷(ひど)いもので、頭に残ったのはその女の悪目立ちの色香だけ」
 吐きすてるようにいった。
「聞いてると元子さんは、その女性に何か恨みでもあるような口振りというか」
 いい辛(づら)そうに口に出すと、
「いえ、特段の恨みつらみがあるわけじゃないですけどね。ただ、まあ何といったらいいのか」
 むにゃむにゃと、元子は言葉を濁した。
「ひょっとして、慎太郎さんが、その店に通いつめているとか」
 思わず麟太郎が口を開くと、
「まあ、そういうことも、ないとはいえませんけど」
 ぼそりといった。
「そんなことより、あの女。児童虐待をしてるんですよ。この寒空のなか、小学校三年生ほどの小さな女の子をこき使って。あたしゃ、それが許せなくて。だからまあ、こんな憎まれ口を叩(たた)いてるんですけどね」
 こほんとひとつ、咳払(せきばら)いをした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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