よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

「児童虐待か、もしそれが本当なら、許されることじゃねえな。とんでもねえ悪女ということになるな」
 独り言のようにいう麟太郎に、
「それそれ、とんでもない悪女――世も末ですねえ、母親が我が子をいたぶるなんぞ。ああ、やだ、やだ」
 けろっとした調子で元子はいった。
 どうやらようやく、溜飲(りゅういん)を下げたような口振りだ。元子は「よいしょ」といいながら丸イスから腰をあげた。
「それにしても、男って本当に莫迦ですねえ」
 にまっと笑ってから、
「ところで若先生の診察は、いつごろですかね、今度は」
 さりげなく訊いてきた。
 元子は潤一(じゅんいち)のファンである。
「そんなことは、俺は知らん」
 麟太郎は低い声でいい、
「男も莫迦だが、女も莫迦だとは思わねえか。なあ、元子さん」
 今度はよく通る声でいった。
 とたんに元子はくるっと背中を向け、早足で診察室を出ていった。
「相変らずですね、元子さんは」
 傍らに立っている看護師の八重子(やえこ)が笑いながらいった。
「それはいいとして、八重さんは、そういう屋台が出たということは知ってるのかな」
 腕を組みながらいう麟太郎に、
「行ってはおりませんが、聞いてはおります。児童虐待の件は初耳ですけど」
 八重子は簡潔に答える。
「何時からやってるんだろうな、その屋台」
「私の耳にしたところでは、六時頃から十一時頃までということでしたが――そんな時間にまで小さな子供を働かせているということなら、これはどう考えても問題といえるでしょうね」
 八重子の少し沈んだ声に、麟太郎はわずかにうなずく。
「行かれるんですか、大先生」
 檄(げき)を飛ばすように八重子がいった。
「事が児童虐待ということならな」
 嗄(しゃが)れた声を出す麟太郎に、
「まさか、色香のほうに目が眩(くら)んだということでは、ないでしょうね」
 釘をさすような、八重子の言葉が返ってきた。
「あのなあ、八重さん」
 いかにも情けなさそうな声を麟太郎は出した。
「失礼いたしました。今のは失言です。取り消します」
 直立不動の姿で八重子は深く頭を下げ、
「大先生は夏希(なつき)さん、一本でした」
 余計なことを一言つけ加えた。
 麟太郎の口から大きな吐息がもれた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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