よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

 外に出ると冷たい風が足元から吹きあげて、麟太郎は思わず体を縮める。
「寒いな、麻世(まよ)」
 隣の麻世に肩を竦(すく)めながらいうと、
「これぐらいの寒さは、寒いとはいわない」
 何でもないことのようにいった。
「道場に火の気は、まったくねえのか」
 やけくそのようにいう麟太郎に、
「ないよ、そんなもの。板敷きの道場だけでなく、みんなで凍(い)てついた道を素足で走ることもあるけど。そんなときは道場に戻って水で足を洗うと、水が温かく感じられるよ」
 麻世は当然という表情で答える。
 暑さ寒さを気にしていたら、武術はできない。麻世は根っからの武術家だった。
「まあ、そうかもしれんな」
 麻世にわからぬよう、麟太郎は顔を顰(しか)める。
「そんなことより、本当におじさんは、ほっとけばいいのか」
 麻世のいうおじさんとは、潤一のことだ。
 診療が終って一段落したところで、一緒におでんを食べに行かないかと麟太郎は麻世を誘ったのだが、
「私はいいけど、今夜も夕食を食べにくるって、昨日おじさんいってたけど」
 こんな言葉が返ってきた。
「いいさ。あいつも子供じゃねえんだから、誰もいなけりゃ、お茶漬けでも食うだろ」
 そう答えて出てきたのだが家に入って誰もいなかったら、潤一は……。
「それほど潤一のことが、気になるのか、麻世は」
 体を竦めて歩き出しながら、ある種の期待をこめて麟太郎は訊く。
「おじさんは気にならないけど、確約はしてないといっても、いちおう約束は約束だから。私は約束を破るのは好きじゃないから」
 理路整然と麻世は答える。
 やっぱり麻世と潤一は、まだまだ相性がよくないようだ。
 十五分ほど歩くと、パチンコ屋の『丸木(まるき)ホール』の看板が見えてきた。
 裏手にある自転車置場に回ると、なるほど隅のほうに屋台が出ていた。
 近づくと温かそうな湯気が夜目にも見えた。まだ六時を少し回ったところだというのに、屋台のすぐ前の縁台はすでに人で埋まっており、周囲にも同じ縁台が四つほど置かれ、ここにも人が数人座っていた。ほとんどが男の客である。
 とりあえず空いている場所に腰をかけると、すぐに小さな女の子がやってきた。これが元子のいっていた、児童虐待を受けているという少女だ。
「何にしますか」
 大人びた口調で女の子はいった。
 大きな目をした利発そうな可愛(かわい)い子だったが、寒さのせいか両の頬が赤かった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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