よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

 以前看板屋の章介(しょうすけ)が『田園』の夏希の顔を称して黄金比という言葉で誉(ほ)めていたが女店主の顔も、その黄金比の類いに違いないと麟太郎は思った。そして、ここ一週間ほど、章介の顔を見ていないことに気がついた。
「ありがとうございます」
 そんなことを考えていると、ふいに頭の上から声がかかった。顔をあげると、女店主が両方の手におでんを盛った皿を持って立っていた。
「初めてのお客さんですよね。申しわけないですね、こんなテーブルもない場所で、おまけに手渡しで」
 女店主は恐縮したような表情を浮べて、湯気の出る皿を麟太郎と麻世に渡した。
「いやいや、客がこれだけいるんだから、そんなことは――それよりも働き者の可愛いお子さんで、見ているだけでこちらのほうが頭が下がります」
 皮肉まじりにいってやると、
「ああ、さっき名前を誉められたといって喜んでおりました。今時美代子なんて、カビの生えたようなレトロな名前なんですけど、私の実家が美代子という名前のおでん屋をやっていまして、それで――もう随分前に潰れてしまった店ですけど」
 幾分恥ずかしそうにいった。
「実家が、おでん屋さんを。なるほどそういうことで」
 独り言のように麟太郎が呟(つぶや)くと、
「申し遅れましたが、私は篠崎美雪(しのざきみゆき)といいます。今後とも、ご贔屓(ひいき)のほど、よろしくお願いいたします」
 思いきり頭を深く下げた。
「ああっ、これはご丁寧に」
 麟太郎と麻世も慌てて頭を下げる。
 それで屋台のほうに戻るかと思ったら、美雪と名乗った女店主はまだ前に突っ立っている。
「あの……」
 と細い声を出した。
「ひょっとして、やぶさか診療所の大先生でいらっしゃいますか」
 妙なことを口にした。
「確かに俺は真野・・(まの)浅草診療所・・・・・の真野麟太郎ですが。何で俺のことを……」
 怪訝な思いで言葉を返す。
「やぶさか診療所の大先生は、仏様のような人だと噂(うわさ)で聞いていましたので、それで」
 これも細い声で答え、
「あの、近々、ひょっとしたら診療所のほうへお伺いするかもしれませんので、そのときはどうぞよろしくお願いいたします」
 美雪はぺこりと頭を下げ、そそくさとその場を離れていった。
「どういうことなんだろうね。あの人、どこかに病気でも抱えてるんだろうか。見たところ元気そうなのに」
 首を捻(ひね)って麻世はいい、
「それに――」
 とぼそっといった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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