よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

「何だ。何かいいたいことがあるんなら、はっきりいえ」
 催促するようにいうと、
「あっ、何でもない。それより早く食べようよ。せっかくのおでんが冷めてしまうから」
 さっさと箸を手にして、はんぺんをつまんで口に放りこんだ。
「そうだな、その通りだな」
 麟太郎も箸を手に取り、たっぷりとダシのしみこんだ大根を割って口に入れる。
 ゆっくりと味を確かめる。
 個性のない味だった。つまり、うまくもなく、まずくもない、普通の味だった。もっと簡単にいえば、文句も出ないが称讃もない。そんな味ともいえた。
「まだまだ、これからだな」
 ぽつりというと、
「えっ、そうなのか。私はけっこう、おいしく感じるんだけど」
 麻世がきょとんとした目を向ける。
「お前の料理の腕は――」
 といいかけて麟太郎は慌てて口を引き結び、
「お前がそういうんなら、そうかもしれん……」
 もごもごと言葉を濁して、慌てて残りの大根を口に放りこむ。そのとき、それが目に入った。
 麟太郎の座っている場所からは屋台の裏手が見通せた。そこに美代子がいた。その前にはバケツが数個置かれていて、美代子はそのなかのひとつに手を入れて何かをしていた。あれは──。
 美代子は皿洗いをしているのだ。
 一心不乱にスポンジで皿をこすっている。
 凍てついた夜だった。
 時折、濡れた手を口に持っていき息を吹きかけながら。美代子の吐く真白な息が、ぼんやりとした灯りのなかに浮きあがる。
 麟太郎の目頭が熱くなった。
 白い息がまた浮きあがった。
 口のなかの味が、ふいに変った。
 おいしいおでんだった。
 ぐっと噛(か)みしめた。
「どうした、じいさん」
 声をかけながら、麻世の視線が麟太郎の見ている方向に注がれた。
「あっ」
 小さな悲鳴を麻世はあげた。
「どうする、じいさん。あの女に捻(ね)じこむか」
 低すぎるほどの声でいった。
「ここは静観しよう。ひょっとしたら診療所のほうにくるかもしれんといっていたし。そうなったら、じっくりと」
 麟太郎も低い声で答えた。
「そうか。じいさんがそういうんなら、それでいいけど。じいさんなりに、何らかの考えがあるんだろうから。それにしても……」
 麻世が唸(うな)ったところで、美代子が立ちあがった。バケツのひとつを手にして、よろよろと歩き出した。汚れた水を換えに行くつもりだ。パチンコ屋の店脇にある水道のある場所まで。
 両手でバケツを提げた美代子は、よろけながら歩いた。おぼつかない足取りだったが、美代子は懸命に歩いていた。
 飛んで行きたい気持を抑えて、麟太郎は固く目を閉じた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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