よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

 章介の前のイスに麟太郎は座っている。
 章介の座る場所は、いつも決まっていて、隣りのやぶさか診療所に面した壁際の奥の席。ここが章介の指定席だった。
 おでんの屋台からいったん家に帰り、どうにも酒が飲みたい気分になって『田園』に顔を出すと章介がいた。
「どうだ、調子は」
 漠然と麟太郎が訊くと、
「麟ちゃんがいっているのは、俺とママの間のことか、それとも俺の生活のことか」
 理屈っぽく章介はいう。
「まあ、どちらもだな」
 コップのビールをごくりと麟太郎は飲みほす。
「一言でいえば、どっちも変りなし。極めて淡々とした毎日を送っているよ。どうだ、安心したか」
 正直、安心したのは確かだった。
「有難いことだと、思ってはいるけどよ」
 といったところで、脇を通りかけた夏希が声をかけてきた。
「あら、何を安心したの」
 麟太郎の隣りに腰をおろした。
「ママをめぐる争奪戦だよ。俺と麟太郎、ママに惚(ほ)れた二人のうち、どちらに軍配があがるかという。今のところ、どちらにもママはなびいていないらしいから安心した。そういうことだよ」
 あっけらかんという章介に、
「あらっ。私に惚れてるのは二人だけじゃないわよ。他にも沢山の敵がいるはずだから、もっともっと頑張らないと」
 煙に巻くようなことをいって夏希は立ちあがり、手をひらひらさせて離れていった。
「敵(かな)わねえな、夏希ママには」
 苦笑を浮べて章介を見ると、ビールのコップを手にするところだった。そのコップが章介の手から離れて、すとんとテーブルの上に落ちた。
「おいっ」と麟太郎が叫び声をあげた。
「おめえ、どっか悪いんじゃねえのか。指先に力が入らねえんじゃねえのか」
 医者の表情に戻って声をあげた。
「大丈夫だよ、心配性だな、麟ちゃんは。といっても医者なんだから仕方がねえか」
 章介は笑いながらいい、
「痛風だよ。そのために時々指先に痛みが走ってな。だからさ」
 再びコップを手にした。ぐっと力を入れて持ちあげ、口に運んだ。
「痛風ならアルコールは駄目じゃねえか。世間でいう、ビールなら大丈夫などという俗説は大嘘(おおうそ)で、ビールだろうが何だろうが痛風にはすべてのアルコールは禁物だ。飲むなら牛乳だ」
「やっぱり、ビールも駄目なのか。それにしても、牛乳とはな――」
 にやっと章介は笑ってから、
「いずれにしても酒ぐらいは飲ませてもらわないとな。俺たち年寄りには何の楽しみもないんだから、せめて酒ぐらいはな。そうは思わないか、麟ちゃん先生」
 妙に据った目を向けてきた。
「そりゃあまあ、そうともいえるがよ」
 章介に家族はいない。天涯孤独の章介にそういわれれば返す言葉はなかった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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