よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(前編) 花と竜・前

池永 陽You ikenaga

「まあ、ほどほどに飲むから大丈夫だよ。ゆっくりゆっくりとな」
 章介のその言葉で、二人はちびちびとコップのビールを喉に流しこんだ。
 麟太郎の脳裏に先刻家に戻ったときの光景が蘇(よみがえ)った。
 真暗な居間に入り灯りをつけると、テーブルの上に一枚のメモ用紙がのっていた。
「帰るから!」
 潤一が書き残したメモだ。
「おじさん、やっぱりきたんだ。でも、このびっくりマークは何だろう。怒ってるのかな。よくわからないけど」
 麻世が首を傾(かし)げていう。
 そう、これは潤一の怒りの印だ。それも精一杯の。これ以上書けば自分に害が及ぶかもしれないと考えてこれでやめたのだろうが、それにしても子供っぽいやつだ。
 麟太郎は吐息をもらしながら、
「一種のマーキングだな。強いていえば、自分はここで生きてるという」
 もっともらしいことを、ぼそっという。
「何だかよくわからないけど、相変らずあのおじさんは面倒臭い人だね」
 麻世はばっさりと一刀両断してから、
「それよりも。いおうか、やめようか迷っていたことがあるんだけど、やっぱり」
 と掠(かす)れた声を出した。
 あの件だ。さっき、おでん屋で口に出そうとしてやめた……。
「あの美雪さんて人。昔の私と同じにおいがする。多分、カタギの人じゃないと思う。危ない人だと思う」
 一気にいって天井を睨(にら)みつけた。
 このあと麟太郎は、田園に向かったのだ。

(つづく)

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number