よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

「なら、隣のおっさんはどうだ。うめえか、おい」
 西島が顎をしゃくったとき、
「いいかげんにしろ、莫迦者(ばかもの)が」
 一喝が響いた。麟太郎の声だ。西島のほうに麟太郎が歩いた。麻世が後ろにつづいた。
「前はどうあれ、こうして真面目に働いている者を罵倒してどうする。どこのヤクザか知らねえが、少しは恥というものを知ったらどうだ。お前さんが本当に美雪さんのご亭主なら、なおさらのことだ。大莫迦者が」
 辛辣な言葉を投げつけた。
「何だてめえ。どこのクソジジイだ。それとも美雪の情夫(いろ)か。もしそうなら、ただじゃおかねえからそう思え。叩(たた)っ殺してやるから、覚悟するがいい」
 西島が麟太郎に近づいた。
 麟太郎の体がさあっと冷えた。
 学生時代は柔道部の猛者だった麟太郎は喧嘩の腕には自信があったが、それは若いころの話で今は……それに相手は屈強なヤクザ者だった。負けるかもしれない。そんな気持が恐怖を誘った。が、一発二発殴られても、とにかく食らいついて投げ飛ばす。それしかなかった。
 覚悟をきめて腰を低く落したとき、
「おじさん」
 と西島に向かって誰かがいった。
 言葉と同時に麻世が麟太郎の前に出た。
「麻世っ、お前」
 麟太郎が叫んだ。
「大丈夫だよ。じいさんのいいつけ通り、私は喧嘩はしないから」
 イミシンなことを口にした。
 そんな様子を、呆気に取られた表情で西島が見ていた。何となく毒気を抜かれた顔つきだ。
「おじさん、私と腕相撲しようよ」
 あっけらかんと麻世はいった。
「あんたと腕相撲って、それは……」
 西島の顔に狼狽(ろうばい)の色が広がった。
「私と腕相撲をしておじさんが勝てば、好きにすればいい。もし私が勝ったら、このままおとなしく帰る。そういうことだよ」
 狼狽の色が更に濃くなった。
「そんなもの、俺が勝つにきまってるじゃねえか」
 呆(あき)れ顔でいう西島に、
「そんなこと、やってみないとわからない。それとも、おじさん。私が怖いの」
 いいながら麻世は縁台の前にひざまずいて、右腕を乗せた。
「そこまでいうんなら、まあ、やってみてもいいけどよ」
 西島も縁台の向こうにひざまずいた。
 どうやら男という生き物は年齢を問わず、綺麗な女性から何かをいわれると、それがいかに突飛な要求でも諾々と従う習性があるようだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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