よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

「一番勝負でいい、おじさん」
「ああ、俺は何でもいいけどよ」
 やけに柔らかい声を西島は出した。
 以前麻世は潤一と腕相撲の三番勝負をしたことがある。そのときは三番とも麻世の快勝だったが今度は――男は潤一よりひと回り体も大きく腕も太かった。それに麻世は左利きなのだ。そんな麻世が、この頑丈そうな男と右腕で勝負して……。
「じゃあ、やるよ」
 麻世の声で二人は右手を組む。
 西島の右腕に力が入った。
 麻世の右手はびくともしない。
 西島の顔がわずかに歪(ゆが)んだ。
 渾身(こんしん)の力を西島は右手にこめた。が、麻世の右手は動かない。西島の顔が狼狽一色に染まる。うろたえている。西島が吼(ほ)えた。前のめりになって全身の力をぶちこんだ。
 やはり麻世の右腕は動かなかった。
「行くよ」
 麻世の右腕に力が入った。
 西島の右手は呆気(あっけ)なく、縁台の上に捩(ね)じ伏せられた。麻世の完勝だった。縁台を取り巻いていた客から、どよめきがあがった。
 ふらりと西島が立ちあがった。
 何が起こったのか、わからない目つきだった。
 やはり麻世は、体中の力を一点に集中させる術(すべ)を知っているのだ。武術とスポーツの差だ。命を懸けた修羅場を何度もくぐり抜けてきた武術者だけが成し得る技だ。麻世はそれを自分のものにしているのだ。
「さっき、やぶさか先生が麻世って叫んでいたけど――」
 声をあげたのは美雪だ。
「あなたって、ボッケン麻世なの」
 叫ぶようにいった。
 その声をぼんやりとした表情で聞きながら、西島がくるりと背中を向けた。
「またくるから……」
 低い声でいって歩き出した。
「お客さん。すみませんが、いろいろありましたので、今夜はこれでお開きということで。ええ、明日は店を開きますから今夜は」
 美雪がこんなことをいい、客たちはそれぞれ勘定を払って帰っていった。あとに残されたのは麟太郎と麻世だけ。
「どうぞ、お二人ともそこに座ってください。助けてもらったお礼といったら何ですけど、おでんも存分に食べていってください」
 美雪は早口でいって、麟太郎と麻世を屋台の前に座らせ、手際よくおでんを皿に盛って二人の前に並べる。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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