よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

「でも美代子だけに辛い思いをさせてる訳ではありません。私にも美代子と同じ辛さを課しています。おでんの仕込みはもちろん、掃除洗濯や炊事など、私と美代子は常に一緒に動いています。一心同体で生きています。もちろん、そんなことがいつまで通用するのかはわかりませんが、今は二人で一緒に苦労しようと、二人一緒に辛さを分かちあおうと。そんなつもりで生きています。美代子には申しわけないけど、腑甲斐(ふがい)ない母親が考えられるのは、そんなことぐらいですから」
 美雪はちゅんと洟(はな)をすすった。
 目頭が潤んでいるようにも見えた。
「それで、美代ちゃんに対する苛めのほうは」
 肝心なことを麟太郎は訊いた。
「今のところ、ないようです。親馬鹿かもしれませんが、あの子は私たちとは違って頭がいいようですし」
 ほんの少し美雪は胸を張った。
「確かにあの子は、頭が良さそうだ。それに素直で我慢強い。大したもんだ」
 思わず口にする麟太郎に、
「ありがとうございます。とても嬉しいです。本当にありがとうございます」
 いかにも嬉しそうに美雪はいった。
「でも、この先、私たちのこれまでが周りにわかると……」
 沈んだ声を出した。
「大丈夫だ。あの子なら大丈夫だ。それにもしそういうことになったら、俺たちも全面的に力を貸すつもりだからよ。なあ、麻世、そういうことだよな」
 隣の麻世に同意を求めると、
「もちろんだよ。相手が校長だろうと大金持ちだろうとヤクザだろうと、きちんとシメてやるから大丈夫だよ」
 相変らずの意見が飛び出した。
「あのなあ、そういうことじゃなくてだな」
 思わず叱りつける麟太郎の言葉にかぶせるように、
「凄(すご)いなあ、麻世さんは、本当に凄い。あの、大先生」
 と美雪が改まった声をあげた。
「あの、私、診療所に行きますから。明日は無理ですけど、明後日の午前中に必ず大先生のところに行って診(み)てもらいますから」
 叫ぶようにいった。
「それは有難いな。しかし、明日は無理だというのはどうしてなのかな」
「明日は店を開くとお客さんにいってしまいましたし。今日のようなことがあって、はたしてお客さんがきてくれるものなのか、気にかかりますし。それに」
 美雪は少しいい淀んでから、
「明日また、西島がやってくるんじゃないかと。確証は何もありませんけど、そんな気がしてならなくて――だから、そうしたもの全部を片づけて、大先生のところに行こうかと」
 西島の名前を口にした。
「なるほど、わかった。で、美雪さんは、もし西島がきたら、どう対応するつもりなんだろう」
 真直ぐ美雪の顔を見た。
「別れようと、はっきりいうつもりです。それが、私にも美代子にも西島にとっても、いちばんいいんじゃないかと思うので」
 きっぱりした口調だった。
「それはいい。それなら麻世、明日の晩も夕飯はここのおでんだ。西島がくるかもしれんというなら、俺たちもな」
「わかった。私は料理が苦手だから、そういう話は大歓迎だよ」
 麻世の言葉が終らぬうちに、
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
 膝に頭がつくほど美雪は頭を下げた。
 それから一時間ほどあとに麟太郎と麻世は家に帰ったのだが……麻世のいった通り、テーブルの上には潤一からのメモがきっちり残されていた。そこには、
「帰る!」
 と書いてあった。
「先日は『帰るから』で今日は『帰る』って、いったいおじさんは何がいいたいんだろうね。相当怒っているようにも感じるし」
「知らん。あいつのやることは、わからん」
 麻世の言葉にうんざりした調子で麟太郎は答え、大きすぎるほどの溜息をついた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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