よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

 麟太郎と麻世が美雪の屋台を訪れたのは、六時ちょっと過ぎ。いつもなら客が入っているはずだが今日は誰もいなかった。
「昨日のことが響いたのかな」
 正面の縁台に座り、こう切り出すと、
「そうでしょうね。噂が飛んでるんでしょうね。でも仕方ないですね。ここはじっくり我慢して、お客さんが戻ってくるのを待つより」
 淋(さび)しそうに美雪はいった。
「おじさん、お姉ちゃん、こんばんは」
 すぐ横で可愛い声が聞こえた。
 美代子だ。大きな目が麟太郎を見ていた。
「こんばんは、美代ちゃん。今日も寒いけど、お母さんの手伝いを、ちゃんとしてくれてるのかな」
 優しく声をかけると、
「美代子、平気だよ。全然寒くないよ」
 真白な息を吐きながら美代子がいった。
「そうか。美代ちゃんは平気か。じゃあ、平気な美代ちゃんに、おじさんはひとつ訊きたいことがあるんだけど」
 麟太郎は真直(まっす)ぐ美代子の顔を見て、
「美代ちゃんは、お母さんが好きかな」
 大胆なことを口にした。
 屋台の奥の美雪が、こちらに視線を向けるのがわかった。
「大好きだよ。お母さんはいつでも美代子の味方だし、強いけど優しいし、いつも美代子を抱きしめて一緒に泣いてくれるし」
 顔中で笑いながらいった。
 とたんに麟太郎の胸が熱くなった。思わず美代子の頭をなでた。美雪の両目も潤んでいるように見えた。
 そんな様子にちょっと戸惑ったのか、
「わたし、水くんでくる」
 叫ぶようにいって美代子はその場を離れていった。そのとき「あっ」と麻世が声をあげて通りのほうを指さした。
 誰かが歩いてくる。あれは西島だ。西島が屋台に向かってゆっくり歩いてきた。美雪の顔に緊張が走るのがわかった。
 西島が縁台の前に立った。
「ここ、座ってもいいですか」
 頭を下げていった。
 昨日とは大分様子が違った。
「暴れねえのなら、いいよ」
 麟太郎が、ぶっきらぼうにいうと、
「暴れません。昨日は、すみませんでした」
 驚いたことに西島は謝りの言葉を出した。
 美雪が、ぱかっと口を開けた。
「どうしたんだ、お前さん。何がどうしてそんなに殊勝になったんだ」
「昨夜、そこの姉さんにあっさり腕相撲で負けて、何かが抜け落ちたというか、突っ張っているのが莫迦らしくなったというか、何というか」
 意外なことを西島はいった。
「ほう、それは、いいことに違いないが」
 いいながら美雪のほうを見ると、凝視するように西島を見ている。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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