よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

 時計は五時半を指していた。
 そろそろ、電話があってもいいころだ。
 麟太郎は診察を終えた待合室のなかを、うろうろと歩き回る。
「じいさん、少しは落ちつけよ」
 麻世が声をかける。
「そうですよ。大丈夫ですよ。いい知らせがきっと入りますよ」
 八重子が落ちついた調子でいう。
「そりゃあ、そうだと思うが、それにしたって連絡が遅すぎる。いったいあいつは、何をしているんだ」
 あいつとは大学病院に勤めている潤一のことで、麟太郎はその潤一からの電話を待っているのだ。
 今日の午前。
 美雪は約束通り、一番で診療所にやってきた。早速診察室のイスに座らせ、できる限り優しく声をかける。
「昨夜は思いがけないことになったが、美雪さんは、あれでよかったのか。一緒に暮すという手も、あったと思うが」
 気になっていたことを訊くと、
「もし本当に、あいつが地べたを這いずり回って改心するのなら、また戻ってくるでしょうし、そうでなければ、あれっきりになるでしょうし」
 淡々とした口調で美雪は答えた。
「美雪さんは、どちらがいいと思ってるんだろうか」
「私は……」
 美雪はちょっといい淀(よど)んでから、
「私、今までに一度も、あいつに殴られたことないんです。飲んだくれて暴れたときも、何かにむかついて、あいつに殴りかかったときも──」
 別の話をし出した。
「どんなときにも、あいつは一度も私に手をあげたことはありませんでした。それがあの夜、平手打ちをくらって。私はあの夜、初めてあいつに殴られたんです。最初の一発です」
「それなら、なぜ西島はその夜、美雪さんを殴ったのかな」
 麟太郎が素直な疑問を口にすると、
「さあ、なぜでしょうね」
 ほんの少し、美雪は笑みを浮べたように見えた。
 そのとき麟太郎の脳裏に何の脈絡もなく、例の潤一の書いたメモが浮びあがった。理由はわからなかったが。
「何にしても」
 ぽつりと美雪が口を開いた。
「頭が悪くて、喧嘩早くて、意気がるだけの人でしたけど。あの人……性根のほうはそれほど腐ってなかったと思います」
 西島の呼び方が、あの人に変っていた。
 明るい顔だった。
「それより大先生、もし私が手術とか入院とかということになったら」
 美雪はすがるような目を麟太郎に向け、
「その間、美代子を預っていただけませんか。虫のいい頼みだとはわかっていますが、今頼ることができるのは大先生しかいませんので」
 大きすぎるほどの目で、じっと麟太郎を見つめた。やっぱり美雪は綺麗だった。
「そりゃあまあ、いいけどよ。うちには麻世もいることだしよ」
 こんな言葉が口から出た。
 麻世に、いきなり腕相撲を挑まれたときの西島の気持が、わかるような気がした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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