よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第四話(後編) 花と竜・後

池永 陽You ikenaga

「けどよ、実のお母さんは……」
 むにゃむにゃと口にすると、
「母親はいずれ訪ねるつもりでいますけど、今はまだ。もう少し生活が安定したら訪ねてみようと思っています」
 伏目がちになって美雪はいった。
「あっ、なるほど、そういうことだよな。それなら仕方がねえというか何というか」
 上ずった声をあげると、傍らの八重子がごほんとひとつ空咳(からせき)をした。
「まあ、それはそういうことで、早速美雪さんを診てみようかの――で、美雪さん自身はどこが悪いと思ってるんだ」
 身を乗り出すようにして訊く。
「乳癌(にゅうがん)じゃないかと」
 とたんに麟太郎の顔が引きしまる。いつもの医者の顔だ。
「気になったのは一年ほど前。乳頭から何か褐色の汁のようなものが出て、痛みのほうも時々鈍痛のようなものが。それにしこりのようなものも」
 はっきりした口調で美雪はいう。
「鈍痛と、しこりって、美雪さん。とにかく上の物を脱いで。そんなことなら、なんで早く病院へ。手遅れだったら、いったい」
 怒鳴るようにいうと、八重子が美雪の後ろに回って衣服を脱ぐのを手伝う。
 上半身裸の体が目の前にあった。
「これは……」
 麟太郎も八重子も絶句した。
 美雪の左肩に花が咲いていた。
 菊の花が三輪ほど。
 それが極彩色で描かれていた。そのうち、一輪の菊は美雪が痛みを訴えている左の乳房の上にかかっていた。
 入れ墨だった。
 みごとな菊の花が、美雪の左の背中から肩口、乳房にかけて入れられていた。このためだ。美雪が病院に行くのをためらったのは。これを見られたくなかったのだ。
「若気の至りです。あの人と一緒になるとき、私は左肩から乳房にかけて菊の花。あの人は右の背中から肩口、胸にかけて昇り竜。こんなものを入れて意気がっていました。大莫迦です」
 恥ずかしそうに美雪はいった。
「ちょうど抱きあうと、あの人の竜の爪が私の菊の花をつかむように……」
 細い声で美雪はいい、
「でも、今となったらこんなものは恥ずかしくて、なかなか病院へは。先日の話でここには元ヤンキーの麻世さんもいますし、それで」
 首を垂れた。
 そういうことだったのだ。これは九州福岡出身の作家、火野葦平(ひのあしへい)の『花と竜』に登場する、玉井金五郎(たまいきんごろう)の背中に彫られた絵柄だ。
「玉井金五郎を、真似たのか」
 ぼそっというと、
「あの人の名前が吾郎で、出身は福岡――だからあの人、花と竜にかぶれてしまって」
 美雪が体を縮めるようにしていった。菊の花がしぼんで、妙なリアリティを感じさせた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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