よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第五話(前編) 珍商売始末・前

池永 陽You ikenaga

 漂ってくるのは、カレーの匂いだ。
 台所に立っている麻世(まよ)は、何かいいことでもあったのか今日はすこぶる機嫌がいい。鼻歌まじりで夕食をつくっている。口ずさんでいるのは麟太郎(りんたろう)の十八番でもある、高倉健の『唐獅子牡丹』である。

“おぼろ月でも 隅田の水に
 昔ながらの 濁らぬ光
 やがて夜明けの 来るそれまでは
 意地でささえる 夢ひとつ……”

 少し調子っぱずれではあるが、まあまあ無難に歌っている。
「何かいいことがあったようなかんじだけど、何があったんだろうな、親父」
 テーブルに座る潤一(じゅんいち)がいう。
「麻世の頭ん中は予測不能だからな。俺には丸っきり見当もつかねえ。案外、何にもないかもしれねえしな」
 麟太郎は白髪頭を左右に振る。
「まあ、いずれにしてもカレーなら、まずくつくるほうが難しいくらいの料理だから、今日は何とかまともな飯が食えそうで、ほっとするよ」
 嬉(うれ)しそうに顔を綻ばせる潤一に、
「お前は、まだ甘い。カレーには二種類あるってことを忘れるなよ。カレーライスとカレー焼きそば――どちらが出てくるのかは、まだ、わからねえ」
 諭すように麟太郎はいう。
「そうか、カレー焼きそばという手があったか。あれには以前、酷(ひど)い目にあってるからな。今の麻世ちゃんの腕では、ぐちゃぐちゃのオジヤのようになってしまうのがオチで、とても食べられた代物には。あれだけはちょっと……」
 情けない声でいう潤一に、
「それはともかくとして、今日、治(おさむ)がまたやってきた」
 ぼそっと麟太郎は口にする。
「治って、あの飯野(いいの)治か。裏通りの村橋(むらはし)鉄工所に勤めている旋盤工見習いの――となると、また喧嘩(けんか)でもやらかして」
「その通りだ。眉毛の上を割っていて四針縫った。殴打されれば簡単に裂ける箇所ではあるが、傷口があまりにも鮮やかすぎる。あれはひょっとしたら」
 麟太郎は言葉を切った。
「刃物傷か。ナイフか何かの刃で擦(かす)られた?」
 身を乗り出して潤一がいう。
「ひょっとしたらな」
 溜息と同時に麟太郎は声を出し、
「お前が診(み)たのは、あれは三カ月ほど前だったかな」
 確かめるように訊(き)いた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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