よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第五話(後編) 珍商売始末・後

池永 陽You ikenaga

「麻世(まよ)。今日の晩飯は外に行って、下町名物の稲荷鮨(いなりずし)にしねえか」
 午後の診療が終って母屋に戻ると、ちょうど麻世がいたので麟太郎(りんたろう)は声をかける。
「いいな、それは。食事をつくる側にいわせれば、まさに夢のような言葉だな。これで私もこき使われずにすんで、楽ができるというもんだ」
 打てば響くように麻世が答える。
「こき使えねえのは残念だが、俺もたまには子供のころからの味が恋しくなることがあってよ」
 麟太郎も冗談っぽく言葉を返してから、
「川上屋っていう稲荷鮨専門の店なんだが、ここは三個五百円の鮨を店内で食わせてくれるから、これをまず腹のなかに入れてから、店頭売りの鮨を買って帰ろう。五目稲荷だの山菜稲荷だのいろいろあるから、好きなものを選べばいいからよ」
 こういって麻世を誘い、六時頃に診療所を出て川上屋に向かった。川上屋は診療所と今戸(いまど)神社の中間あたり、歩いて十分ほどの距離だった。
「実は、その店に志麻(しま)ちゃんという看板娘がいてな。近所の鉄工所の見習い工の治(おさむ)という野郎が、その娘に首ったけで週に二回は店に通っているという話を聞いてよ。だから、運がよければ、今日あたり会えるかもしれんと思ってな」
 道すがらこんな話をすると、
「じいさん特有の、いつもの野次馬根性か……でも、ちょっと待ってよ」
 麻世が何かを考える素振りを見せた。
「その治君って人なら、話をしたことがあるよ、診療所の待合室で。あれは学校が午前中の授業しかなくて、早く帰ってきたときだったから、よく覚えているよ」
 思いがけないことを口にした。
 いつものように、麻世が診療所の待合室の隅に座っていると若い男が隣にきて、
「すみません。俺は飯野(いいの)治といって決して怪しい者じゃないですので」
 と頭を下げてきた。
「あの、ここの大先生の親類筋の麻世さんですよね。ちょっと教えてほしいことがあって声をかけたんですけど」
 誰から聞いたかはわからないが、ちゃんと麻世のことは知っているようだ。もっとも麻世はこの界隈(かいわい)では、けっこう有名な存在ではあるけれど。
「綺麗(きれい)な女の子をクドクには、どんなことをいったら喜ばれるか教えてもらえないでしょうか」
 とんでもないことを訊(き)いてきたという。
 あまりに胡散臭(うさんくさ)い質問に麻世がそっぽを向くと、
「あっ。もちろん相手は麻世さんじゃなく、全然別の人ですから、そこのところは……」
 治は急にしどろもどろになり、ひしゃげたような声を出した。
「そんなことわかってるよ。私は別に綺麗でも何でもないし」
 そういって治のほうを見ると、泣き出しそうな顔をして麻世を見ていた。それがいかにも純情そのものの顔に見えて、麻世の心が少し動いた。
「綺麗だろうが何だろうが、その女の子が好きなら誠心誠意――これしかないよ。というか、そうでないと駄目だよ」
 ぶっきらぼうに答えた。
「誠心誠意ですか……わかりました。ありがとうございます」
 治はぺこりと頭を下げて、さっとその場を離れ待合室を出ていったという。
 三日前のことだと麻世はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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