よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

「俺が宝クジに当たったって、夏希ママが?」
 一瞬きょとんとした表情を章介は浮べてから、肩を震わせて笑い出した。
「もし大金が当たったのなら、丸ごと食べてやるという、有難いお言葉だったが」
「そりゃあ嬉(うれ)しい限りだが、残念ながらそういうことでは決してないな」
 さらっといって章介は麟太郎の顔を窺(うかが)うように見てから、
「安心したようだな、麟ちゃん」
 嬉しそうにいった。
「まあ、そうともいえるな。何といっても夏希ママは、お金大好き人間だからよ――ところで宝クジではないとしても、いったいどんないいことがあったんだ」
 章介の顔を麟太郎が覗(のぞ)きこんだところへ、夏希がビールとお通しを持ってやってきて、興味津々といった表情で二人を見る。そんな様子に水をさすように、
「残念ながら章介の笑みは、宝クジとはまったく関係ないそうだよ、ママ」
 麟太郎はやんわりという。
「なんだ――」
 夏希の表情が普段の顔に戻った。
「じゃあ両先生、ごゆっくり」
 さっさと二人の前を離れていった。
「相変らず潔いな、夏希さんは」
 笑いながらいう章介に、
「ああいうのを、潔いというのか……」
 頭を振りながら麟太郎はいうと、
「ところで、笑みの原因は何なんだ、いったい」
 真顔を章介に向けた。
「描けたんだよ、あれが」
 一瞬の沈黙のあと、章介は顔を綻ばせていった。よほど嬉しいのか顔中が笑っていた。やはり会心の笑みだ。
「描けたっていうのは、例のお前の心を包みこんで離さないという、女性の絵か」
 勢いこんでいう麟太郎に、
「そうだ。ようやく描けた。正直いって苦労した。何といっても昔の話だ。若いころの顔を思い出しながらカンバスに再現するっていうのは、いくら絵描きといっても至難の業といっていい」
 強い声でいった。
「そうか、それはめでたい。じゃあ、ようやく俺も、その女性の顔が拝めるわけだ」
 ほっとしたように麟太郎がいうと、
「それは駄目だ、まだ無理だ」
 意外な言葉が返ってきた。
「描けたのは本体ともいうべき女性の顔だけで、背景がまだ描けていない。だから麟ちゃんにはまだ当分見せられない」
 凛(りん)とした口調で章介はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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