よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

「背景って――メインが描けたのなら、背景なんて楽なもんじゃないのか。何たって、肝はその女性の顔なんだからよ」
 何でもないことのように口に出すと、
「今回、背景もかなり重要なんだ。というより、背景が俺のすべてを物語っているといっても過言ではないから」
 妙なことをいった。
「背景が明るければ絵は輝いて見えるし、背景が暗ければ絵は沈んで見える。つまり、俺の心の状態を背景は如実に語ることになる。だから難しい。迂闊(うかつ)な色を塗ることはできない。だから、まだ迷っている」
 真剣な表情でいった。
「迷っているって――そんなものは、明るい色で描いて全体を輝かせればいいんじゃねえのか。何といっても、いまだに愛しつづけているという女性なんだからよ」
 ふいに章介の表情が変った。
 がらりと変った。
「確かに俺はその人を愛しつづけている。しかし、怨(うら)んでいることも事実だ。心の奥底から怨んでいることも……その人は俺に酷(ひど)い仕打ちをした。俺はその人から、死ぬほど辛い仕打ちを受けた。俺の心はその人の姿を刻みこみ、そして凍りついた。その冷たい氷の塊はまだ融(と)けてはくれず、俺の心は軋(きし)みつづけている。そうなると、背景は真っ暗……しかし俺は、その人の明るい絵が描きたいんだ。怨みつらみは描きたくない。凍りついた俺の心が融ければそれが可能なのだが、なかなか俺の心はいうことを聞いてくれない。だから悩んでいる、迷っている」
 一気にいう章介の顔は歪(ゆが)んでいた。先ほどまでの笑みはまったく見られない。こんな章介の顔を見るのは初めてだった。章介は切羽つまっている……麟太郎はここで、章介の生活のほんの一部しか知らないことに気がついた。
 両親は十年ほど前に相次いで亡くなり、一人息子だった章介に兄弟はいない。独り身の章介はこの十年間、一人きりで暮してきたのだ。あの天井の高い仕事場で、朝から晩まで一人で看板を描き、一人で食事をし、一人で眠り、一人で暮しつづけて年老いてきたのだ。
 そしてこの先待っているのは、孤独死……外で会えば冷めた表情を浮べて気さくな話をする章介だったが、一人きりのときは、いったいどんな顔をしているのか。わからなかった。わからなかったが、目の前の章介の顔は歪んでいた。
「章介、おい、章介――」
 麟太郎は、できる限り優しく声をかけた。
「ああっ……」
 章介はうめくような声をあげてから、
「すまん。ちょっと取り乱してしまった。申しわけない」
 掠(かす)れた声でいった。
「俺はいつまででも待つからよ。何なら、お前の、その心の氷が融けるまでだってよ。たとえ何年かかったとしてもよ」
「そんなには、待たせないよ」
 低すぎるほどの声を章介は出した。
「氷が融けなければ、自分で融かすようにするよ。意志の力で何とか融かすようにするよ。これでも俺は、一時は本気で絵描きを目指した人間だ。意志の力と執念だけは並の人間よりはあると思うからな……」
 そうなのだ。章介は、れっきとした有名芸大出の絵描きなのだ。意志の力も執念もあるだろうし、この界隈(かいわい)では変人で通っている身でもあるのだ。しかしそうなると――。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number