よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

「章介。お前は変人で通っているが、変人は一人きりの生活でも淋(さび)しさは感じないのか」
 思いきって訊いてみた。
「淋しいさ」
 ぽつりといった。
「若いころは孤独という言葉が好きだったが、あれは曲りなりにも周りに人がいたから……それに年を取るに従って、人恋しさが募るようになってきた。特にここ十年、年老いた両親でもいなくなると……どこもかしこも、がらんとした野原の真っ直中にいるような気になって、居ても立ってもいられないような孤独感に襲われることもあったよ」
 淡々と章介は話したが、正直な気持だと麟太郎は思った。
「立ち入ったことを訊くが、そういうときはどうするんだ」
「倒すんだよ」
 意味不明な言葉を章介は出した。
「仕事場のなかに立てかけてある看板を、片っ端から倒してまわるんだ。やつらは実にいい音を立てて倒れるからな。その倒れる音に精神が癒されるんだ。そしてそのあと、今度は倒した看板をひとつひとつ、丁寧に元に戻していく。この単純作業で体のほうも癒されるということなんだろうな」
 しみじみとした口調で章介はいった。
「章介、お前は正直者だな」
 ぼそっというと、
「正直すぎて損ばかりしている」
 章介は微(かす)かに笑ったようだ。
「例の心の底から愛した、女性のことか」
「愛しすぎて、他の女性を想うことができん。自分の心を欺くことは無理だから」
 自嘲ぎみにいった。
「つかぬことを訊くが、その生涯を懸けた恋というのは、いったいいつごろのことなんだ。むろん、無理に話せとはいわねえが」
 何気なく麟太郎は口にした。
「ここまできたら、麟ちゃんには大抵のことは話すさ」
 こんな前置きをしてから、
「俺がまだ、うんと若いころ。高校二年のときのことだよ」
 驚くようなことを口にした。
「高校二年って……若いとは思っていたが、そんなに若いとは。そうなると、かれこれ五十年ほど前のことじゃないか」
 衝撃だった。喉につまった声を麟太郎はあげた。
「そうだな、かれこれ五十年になるな」
 低すぎる声で章介は答えた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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