よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

「五十年間、章介はその女性を一途(いちず)に愛しつづけてきたのか」
 まだ声が喉につまっていた。
「さっきもいったように愛しつづけると同時に、怨みつづけてきた。それが正直なところだ。一時はその女性を殺して自分も死のうと思ったときもあったが、そこまでする権利はないと考えて」
「権利……」
 ぼそっと口にすると、
「もっと正直なことをいえば、いつかその人は俺のところへ戻ってくるんじゃないかと。そんな淡い気持で待ちつづけたが、結局その人は戻ってこなかった」
 独り言のように章介はいった。
「待つだけだったのか、何か行動をおこしてみなかったのか」
「待つだけだった。行動をおこすのは傲慢すぎると思って、俺はひたすら待った。待つのが義務だと思った」
「やっぱり、お前は正直すぎる――」
 麟太郎は小さな吐息をもらし、
「五十年前、いったい、その女性との間に何がおこったのか今は訊かないが、もし、お前が話す気になったら」
 つかえつかえ、口にした。
「そのときがきたら、麟ちゃんには話すよ。俺も一人ぐらいは、俺とその人のことを知っておいてほしいと思ってるから。俺の五十年前の命を懸けた恋を」
 いってから章介は、ゆっくりとテーブルの上のビールの入ったコップに、右手を伸ばした。手にして口に運ぼうとしたが、コップは動かなかった。また、あれだ。章介は右手に左手をそえ、ようやくコップを持ちあげた。
 そのとき麟太郎の脳裏に、心神喪失という言葉が浮んだ。
 心神に障害のある者は、四肢の自由が利かなくなることもあったし、喜怒哀楽の表現に変調をきたすこともあった。最初の異常なほどの明るさと、そのあとの歪んだ表情等々……ひょっとしたら章介は――。
 しかし麟太郎はこの地域の町医者であって、精神障害は専門外だった。軽々に判断をくだすことは無謀であり傲慢でもあった。では、どうすれば。
「章介。以前お前に、うちの麻世(まよ)のことを話したことがあったが――そのときいったように、一度絵描きの目で麻世の顔をじっくり見て、夏希ママと較(くら)べて、どっちが綺麗(きれい)なのか判断してくれねえか」
 とっさに、こんな言葉が飛び出した。
「ああ、あの話か。いいよ。何だか面白そうな話だし」
 章介は、ふたつ返事で承諾した。
 麻世に章介を会わせれば、ひょっとして……。
 麟太郎は、手にしたコップのビールを一気に飲みほした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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