よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

 午後の診察の最後は、風邪をひいたといって洟(はな)をすすりながらやってきた風鈴屋の徳三(とくぞう)だった。
 聴診器を肋骨(ろっこつ)の浮いた痩せた胸に当てて、丁寧に音をひろってみるが、特段の異常さは感じられない。
「単なる風邪だから、無理をしないで寝ていれば治ります、親方」
 衣服を整えている徳三に優しくいってやると、
「何をいいやがる。浅草生まれの江戸っ子が、単なる風邪ぐれえで寝こんで、どうするんでえ。そんなものは仕事に精を出しゃあ、どっかに飛んでいってしまうはずだ。そうでござんしょう、大先生」
 下町言葉で徳三はまくしたてた。
「そうはいっても徳三さんは高齢なんだから、体は大切にいたわってやらねえと」
 諭すようにいう麟太郎に、
「高齢たって、おめえさんとひと回りも違うわけじゃねえ。まだまだ俺の体は、これからだ――とはいっても、大先生がそこまでいうんなら薬ぐれえはもらってやってもいいけどよ」
 これがいいたかったのだ、徳三は。素直に薬が欲しいといえないのが、この風鈴屋の徳三という男の性格なのだ。
「わかりました。風邪の特効薬というのはないので、漢方のほうを出しましょう。副作用もほとんどないですし」
 最後に「年寄りでも」という言葉をつけ加えたいのを我慢して麟太郎はいう。
「漢方でも何でもいいさ。飲めば義理は果たせて万々歳ってえもんだ」
 訳のわからないことをいって、徳三は皺(しわ)だらけの顔を綻ばせてにまっと笑い、
「ところで今日は大先生に、いいものを持ってきてやった」
 上衣のポケットからガラスの小瓶を取り出した。なかに入っているのは小さな果実――これは杏子(あんず)だ。
「親方、これは!」
 上ずった声をあげた。
「知っての通りの、杏子のシロップ漬けだよ。小さいころ、駄菓子屋に行けば必ず売っていた、下町育ちのガキにとっては宝物のような存在だよ」
 嬉しそうにいう徳三に、
「そうだった。メンコやビー玉のあとに、こいつを食って幸せ気分を味わったもんだった。甘くて酸っぱくて……」
 当時を思い出しながら麟太郎はいう。
「ところが昨今、こいつがなかなか手に入らねえ。手に入ったとしてもアメリカ産の乾燥杏子を使ってるってことで、昔の味とは違うものになっちまいやがった。そこでだ、俺は自分でこさえてみることにした。苦節十年――ようやく昔の味に近いものを再現することに成功した。そのお裾分けってことだ。有難く食いな、やぶさか先生」
 にまっと笑って徳三は立ちあがり、礼などはまっぴらだという顔つきで診療室をさっさと出ていった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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