よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

 麟太郎は小瓶を手にしたまま、
「八重(やえ)さんは、こういうものは」
 と傍らに立つ看護師の八重子に声をかける。
「残念ながら私は富山生まれなので、そういったものは初めて見ましたけど、大先生たちにとって貴重なものだということはよくわかります。ですから私へのお気遣い無用で、どうぞ大先生たちで」
 ふわっと八重子は笑い、小さくうなずいた。
「そうかい。それじゃあ、八重さんへのお裾分けはなしってことで遠慮なく、ご馳走になるとするか」
 独り言のようにいう麟太郎の脳裏に、このときメンコに興じる幼い章介の姿が浮んだ。章介も杏子のシロップ漬けが好きだった。あいつにはお裾分けだ。そう考えながら立ちあがって小瓶を机の上に置き、診察室のドアを開けて待合室に目をやると、やはり麻世がいた。
「じゃあ八重さん、俺はちょっと麻世に用事があるからよ」
 八重子に声をかけ、待合室に行って麻世の隣に腰をおろす。待合室にいるのは麻世一人だけだ。
「どうだ、麻世。人間観察のほうは」
 大雑把な問いを投げかける。
「やっぱり悲しいね。莫迦(ばか)なことをいい合っていても、心の奥にいろんなことを秘めているのが何となくわかるよ。近頃では幸せな人なんて、世の中にはいないんじゃないかという気もしてきたよ」
 掠れた声で麻世はいった。
「それは違うぞ、麻世。それでも幸せな人はいっぱいいると俺は思うぞ――もう少しここに座って人間を見ていれば、お前にもわかってくるとは思うが」
 麟太郎はこう断言してから、
「実はお前にひとつ、頼みがあってな」
 まず他言無用と念を押し、章介のあれこれをざっと話して麻世にこういった。
「俺と一緒に章介のところにいって話をし、あいつが精神を病んでいるかどうか麻世の直感で判断をしてほしいと思ってよ」
「いいけど……」
 当然断りの言葉が出るだろうと身構えていた麟太郎に、麻世は含みはあるものの承諾の返事をあっさり口にした。これで説得の必要はなくなったと、ほっとしている麟太郎に、
「でも、じいさんにわからないものが、私にわかるはずがないんじゃないか。自信のほうはまったくないよ」
 麻世が低い声を出した。
「だから、直感でいいんだ。お前は以前、おでん屋の美雪(みゆき)さんが危ない人間だということをいい当てたし、旋盤工見習いの治(おさむ)の本質が優しさだということもいい当てた。その麻世の直感で判断してくれればいいんだ。もちろん、お前の判断を頭から鵜(う)のみにするわけじゃない。参考にする程度だから大丈夫だ」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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