よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

 これまでの経験から、麟太郎は麻世の直感をかなり信じていた。修羅場をくぐってきた武術者の物の見方というか、持って生まれた動物的な勘というか。そんなものを麻世が持っているのは確かな気がした。だから麻世を章介に……もっとも、苦しいときの麻世頼み。そんな、やけくそな部分があったのも事実だが。
「直感でいいんなら、やってみるよ。でも、あくまでも参考意見だよ。本当に自信はないんだから」
「よし、決まりだ。なら、いつ行くかは章介に相談しておくからよ」
 麟太郎は両手を強く叩(たた)き、
「ただ、あいつは時として、妙なことを口走る癖があるけど、それはまったく無視してくれてかまわんから。気にしなくていいから」
 いくら何でも夏希と麻世と、どちらが綺麗なのか章介に見てもらうとは口が裂けてもいえるはずはない。そこのところは出たとこ勝負で、とにかく章介の見立てが最優先。そう自分にいい聞かせて、麟太郎は麻世に向かって小さくうなずく。
「何か変なこと、考えてない?」
 麻世が麟太郎の顔をじろりと見た。
「俺の信条は常に、世のため人のため。そういうことだ、麻世。そうだ、帰りに鰻屋(うなぎや)に寄ろう、久しぶりに贅沢(ぜいたく)しよう、麻世」
 上ずった声を麟太郎はあげた。
「肝吸いつきか、じいさん」
 嬉しそうな声がすぐに返ってきて、麟太郎が何度もうなずくと、
「また、おじさん。臍(へそ)を曲げるね」
 ぽつりと麻世がいった。
「いくらあいつでも学習能力はあるだろうから、大丈夫だろう」
 何の根拠もないことを麟太郎は口にした。

 夕方の五時ちょっと前。
 章介の仕事場のドアノブを回してみると、当然ながら鍵はかかっていなかった。
「おおい、章介。きたからな」
 大声をあげながら、麟太郎と麻世は仕事場のなかに入りこむ。
「すごいね、ここ」
 立てかけられた夥(おびただ)しい数の看板の類いを見上げながら、麻世が感嘆の声をあげる。
 奥の仕事場に行くと、作業机の前に立った章介が二人を迎えいれる。ちらりと電子レンジの脇に目をやると、白布をかけたカンバスとイーゼルがあった。あの下に章介の命を懸けた、女性の顔が――。
「麟ちゃん、そっちは見っこなしだ」
 ちくりと釘を刺してから章介の目が麻世の顔に移った。凝視した。穴があくほど見つめている。それから大きな吐息をもらした。
「じゃあ、コーヒーでも淹(い)れるから、そのあたりのイスに座ってくれ」
 作業机脇のパイプイスを目顔で指し、章介は電子レンジのあるほうへゆっくりと歩く。その姿を、今度は麻世が凝視していた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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