よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

 麟太郎は部屋のなかを見回している。
 前回きたのは夜だったので外は真っ暗だったが、今日はわずかだったものの、まだ陽の光が窓の外にあって部屋のなかに入りこんでいた。そのせいか部屋の様子がよくわかった。
 部屋全体が寒々としていた。快適空間と麟太郎が羨(うらや)ましく感じた男の仕事場も、今日は埃(ほこり)っぽい煤(すす)けた空間に見えた。目を凝らせば、やはりここは年寄りの作業場だった。孤独な老人が独りで住んでいる終焉(しゅうえん)の地に見えた。こんな場所で章介は……。
 麟太郎はぶるっと身震いをした。
「どうした麟ちゃん、寒いのか。ストーブは三つ、つけておいたんだが」
 作業机の上に三人分のコーヒーを並べ終えた章介が、申しわけなさそうにいう。
「いや、単なる身震いで寒さは関係ない。ちょっと風邪ぎみなのかもしれん」
 こういって、コーヒーカップに手を伸ばす麟太郎に、
「しかし、とんでもないモノ・・を連れてきたな、麟ちゃん」
 ちらっと麻世の顔に目を走らせて、章介はいった。
「俺はこの子の顔が、むしょうに描きたくなった。描きたくて描きたくてたまらないというのが、俺の今の心境だ。だが――」
 ぽつりと言葉を切ってから、
「俺のような生半可な腕では、この子の顔をカンバスに映し替えるのは到底無理だ。よほどの腕達者でないと、この子の顔は描くことはできない。目、鼻、口――どれひとつとっても絶妙の造形、絶妙の配置だ。一ミリでも間隔がずれれば、すべては台なし。改めて俺は造化の神の偉大さを知った。早めに絵筆を折った俺は正解だった。でなければ、このとんでもない素材を何とかカンバスに映し替えようと七転八倒するだろうからな。そのあげく、二度と立ち直れないほどの傷を負い、自分の才能のなさに絶望の淵(ふち)に突き落されることになる」
 章介は滔々(とうとう)と語った。そんな章介の顔を麻世が、きょとんとした表情で見ている。
「とにかく、世の中は捨てたもんじゃない。その一言に尽きる素材だな」
 叫ぶようにいってから、章介はまだ冷めていないコーヒーを喉を鳴らして一気に飲んだ。
「ということは……」
 麟太郎は、今更ではあるが声をひそめて訊く。
「どちらが綺麗かと問われれば、文句なしに夏希ママよりこの子のほうが上。しかも、ダントツだ。ただ、美人度だけを取り出せば、夏希ママのほうが上ということになる」
 妙なことを口にした。
「不思議なことに、ひとつひとつのパーツを詳細に眺めても、この子には息をのむようなものはない。それが、ひとつの顔という面に納まると、息をのむどころか、息もできないほどに綺麗で美しくなる。もっといえば、この子には夏希ママのような美の定義ともいえる黄金比はまったく見られない。つまり、この子はギリシア以来のヴィーナスの美はまったく持ち合せていないが、それ以上の、この子にしかない独自の美を持っているということになる。それがどんな美の定義になるのか、俺にはさっぱりわからないが、現実が目の前にいるのだから受けいれるより仕方がない」
 大きな溜息(ためいき)を章介はもらした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number