よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

 ちらっと麻世を見ると、じろりと睨(にら)み返された。これまでの話で麻世にもこの状況の意味が当然ながら理解できたようだ。
「麻世、お前。章介の言葉を借りれば、美しさ絶頂のべた褒めだぞ」
 恐る恐る麟太郎が口に出すと、
「私は綺麗なんかじゃないから。男同然の乱暴で、ガサツで、いいかげんな女だから。そんなに褒められても困るだけだから」
 麻世は吼(ほ)えるように章介にいった。すると、
「わかった、麟ちゃん。この子の魅力がひとつだけ」
 章介が、イスから立ちあがって叫んだ。
「この子の魅力は平面では表せない。実際に今のように喋(しゃべ)ったり、歩いたり、踊ったりする立体面の世界で途方もない魅力が発揮されるんだ。生身のこの子の姿が、いちばん映えるときなんだ。だから、カンバスに映し替えることなどはできない。理由はまったくわからないが、それがこの子の、魅力のひとつであることは確かな気がする」
 いうだけいって、章介はすとんとイスに腰をおろした。肩で大きく息をした。
「大丈夫か章介。俺たちはこれから鰻でも食べに行くつもりなんだが、よかったらお前も一緒にくるか」
 麟太郎は優しく声をかける。
「いや、遠慮しとこう。鰻は老いた今の俺の体調には強すぎるし、それに折角すごいモノを見せてもらったんだ。しばらくはその余韻に浸っていたいからよ。それから麻世ちゃん」
 章介は初めて麻世を名前で呼んで、顔を真直ぐ見据えた。
「よほど腹を括(くく)って生きていかないと、麻世ちゃんは不幸になる。それが類いないものを持って生まれてきた者の宿命だから。とにかく、腹を括って」
 諭すようにいった。
「はい、わかりました」
 驚いたことに、章介の言葉に麻世が素直に反応した。
「私はいつでも腹だけは括っているつもりですから。いつ、どこで死んでもいいように」
 ぺこりと頭を下げる麻世を、章介が目を大きく見開いて見ていた。
「じゃあ、章介。俺たちはもう帰るからよ」
 麟太郎はこういって、ポケットから杏子のシロップ漬けを小分けにした瓶を取り出して章介に渡した。「おおっ」という歓声が章介の口からあがった。
「風鈴屋の徳三親方からの、お裾分けだ。俺たちの子供のころの味がなかなか見つからないので、自分でこしらえたそうだ。ほんの少しで悪いが食べてくれ」
「いいな、こういうものは、子供のころをリアルに思い出すことができて。何かこう、心の奥が真白になっていくようでさ」
 心なしか、章介の両目は潤んでいるようにも見えた。
「何だか今日は、盆と正月が一度にきたような気分にしてもらった。いや、本当にありがとう。いい時間を過すことができた」
 章介は麻世と、杏子のシロップ漬けを交互に見て頭を下げた。
「なら早速、杏子のシロップ漬けを食べながら、いい物を見せてもらった余韻に浸ることにするよ」
 そんな章介の言葉を背に、麟太郎と麻世は仕事場の外に出た。すっかり暗くなって、かなり冷えてもいた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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