よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(前編) 秘 密・前

池永 陽You ikenaga

「悪かったな、麻世。ダシに使ったようでよ」
 麟太郎が素直に謝ると、
「いいよ。普通の人にあんなことをいわれたら頭にくるけど、あのおじさんの場合は頭にこなかったから。なぜだかわからないけど」
 普段のままの言葉つきでいった。
「五十年間、別れた女性を想いつづけるというぐらい、あいつは純粋なやつだから。麻世とは、相通じるものがあったんじゃねえのか」
 麟太郎は柔らかな口調でいい、
「それにしても芸術家というやつは、相変らず芝居がかっているし、大げさだし。小難しい理屈は多いし、何だか煙(けむ)に巻かれたような気分だな。それはそれとして、麻世」
 医者の目になって麻世を見た。
「例の件だろ――私の勘では」
 麻世は一瞬空を見上げてから、
「あのおじさんは、病気だと思う。私の勘は盛んにそう訴えていた」
 断定したようないい方をした。
「そうか、やっぱりな。となると、あいつに引導を渡して、いい精神科医への紹介状を書いてやらんといかんな。症状が悪化する前に」
 独り言のようにいう麟太郎に、
「違うと思う」
 はっきりした調子で麻世がいった。
「あのおじさんは精神的な病気じゃない。私はあのおじさんがコーヒーを淹れに行くときの後ろ姿を見てたんだけど、体の中心がぶれていた。歪(いびつ)だった。おじさんはかなり無理して頑張っていたようだけど、あれは左右の筋肉か筋のどこかが壊れているからで、精神的なものじゃないと思う」
 武術者から見た、具体的なことを口にした。
「そうか。麻世から見ると、章介は体の病気か。となると、いったい……しかしなあ」
 麟太郎は太い腕をくんで、空を睨みつけた。

(つづく)

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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