よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第六話(後編) 秘 密・後

池永 陽You ikenaga

『田園』に行くと客は数人。近頃では珍しく店は空(す)いていた。
「いらっしゃい、大先生」
 すぐに夏希(なつき)がよってきて、思いっきり嬉(うれ)しそうな声をあげる。
「店が空いていると、ママの声もいつもより一オクターブほど高くなるようだな」
 皮肉っぽくいってやると、
「何を子供みたいなことをいってるんですか。私の声はいつも同じ。大先生のように大好きな常連さんなら、それに嬉しさが加わるだけですよ」
 麟太郎(りんたろう)の腰に手を回して、ささやくようにいう。
「大好きな常連なあ……」
 思わず口に出す麟太郎に、
「子供みたいといえば、つい今しがた章介(しょうすけ)さんがきて、すぐに帰ってしまったんですよ」
 夏希は不審そうにいった。
 十五分ほど前のことだという。
 扉を押して機嫌よく入ってきた章介は、店のなかをぐるりと見回して、
「悪いけど、今夜は帰るよ」
 と呟(つぶや)くように夏希にいった。
 驚いた夏希が理由を訊(き)くと、
「いつもの指定席が、埋まっているから」
 悲しそうな声を章介はあげた。
 確かに章介がいつも座る、診療所側の奥の席はすでに客で占められていたが、他にも空いた席はいくつもある。
「他の席では駄目なんだ、ママ。他の席では具合が悪いんだ」
 こんな言葉を口にして、さっと背中を向けて店を出ていったという。
「ねっ、何だか子供みたいでしょ。もっとも、さすがに芸術家というのは考えることが違うと感心したのも確かですけどね――でも、どこからでも私の顔は見えるのにねえ」
 夏希は空いている席に麟太郎を押しこめ、すぐにビールとお通しを持ってきて、体を密着させて隣に座る。
「どうぞ」といってコップにビールを満たす。
「おっ、空いていると、やっぱりサービスがいいな」
 機嫌のいい声を麟太郎があげると同時に扉が開いて、数人の客がなだれこんできた。
「あっ、大先生、ごめんなさいね」
 すっと夏希は立ちあがり、笑顔満開の表情で新しい客のところに向かう。
「確かに章介のいう通り、夏希ママは潔い」
 呟くようにいって章介のいう奥の指定席に目を向けるが、何の変哲もない普通のソファーがあるだけだ。まったく芸術家というのは訳がわからん――そんなことを考えつつ、ついさっきまでの居間でのやりとりを麟太郎は思い浮べる。
 久々に麻世(まよ)の手料理にありついた潤一(じゅんいち)は、すこぶる機嫌がよかった。といっても、献立は冷凍食品の八宝菜だったが。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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