よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第七話(後編) ひとつの結末・後

池永 陽You ikenaga

 田園の扉を押してなかに入ると、客はほんの数人。すぐに夏希(なつき)がやってきて、睨(にら)むような目で麟太郎(りんたろう)を見た。
「大先生、遅い。章介(しょうすけ)さんがあんなことになって……それならすぐに私のところへくるのが筋でしょ」
 まくしたてるようにいった。
 筋といわれれば、そうともいえた。章介はこの店に通う理由として、夏希に惚(ほ)れたからという言葉を公言して憚(はばか)らなかった。夏希も麟太郎もその言葉は何度も聞いていた。しかしそれは――。
「章介さんが亡くなってから、大先生がここに顔を出すのは今日が初めてですよ。それではあまりに、薄情がすぎるんじゃないですか。情けないんじゃないですか」
 夏希は麟太郎を押しこめるようにして店の奥に座らせ、自分もその前に腰をおろした。章介がいつも座る席だ。隣の診療所にいちばん近い場所だった。
「章介さんはその席に座って、いつも静かに私の顔を見てたんですよ。ただひたすら、私の顔を」
 それは何ともいえないが、この席で章介が物思いに耽(ふけ)っていたのは確かだ。
「噂(うわさ)によると、章介さんが亡くなる直前に会っていたのは大先生だそうですが。そのとき、章介さん――」
 と夏希は麟太郎の顔を真直(まっす)ぐ見てから、
「大先生はビールで、よかったですね」
 すっと席を立ってカウンターのほうに戻っていった。
「噂によると、か。まったく下町ってとこは、プライバシーも何もあったものじゃねえな」
 口のなかだけで呟(つぶや)いていると、トレイの上にオシボリやら突き出しやらビールやらをのせて、夏希が戻ってきた。
 手際よくテーブルの上に並べて、麟太郎のコップにビールを注ぐ。そっと手を伸ばして一息で半分ほど飲んで、ふっと麟太郎が吐息をつくと、
「章介さん、そのとき、私のこと何かいってませんでしたか」
 珍しく、妙に恥ずかしそうな素振りで夏樹は訊(き)いた。心なしか、潤んでいるような目で麟太郎に視線を向けた。
「そういう話は別段……」
 夏希の目はまだ、麟太郎の顔に張りついたままだ。
「あいつは、そういう話は極力しない男だったから」
 掠(かす)れた声を出すと、
「なんだ、つまんない」
 夏希は少女のような可愛い声をあげた。
 麟太郎の飲み残しのコップにさっと手を伸ばして、一気に喉の奥に流しこんだ。小さな吐息をもらして、とんとコップをテーブルに戻した。
「ひょっとして夏希ママは、章介のことを――」
 麟太郎が湿った声をあげたとき、新しい客が入ってきた。
「よしっ、じゃあ頑張るか」
 夏希は男の子のような声をあげ「じゃあね、大先生」と勢いよく立ちあがって、麟太郎の前を離れていった。
 麟太郎は章介の指定席に体をあずけながら、あいつはいったい何を考えながら無理をしてここに座り、酒を飲んでいたのだろうと考える。むろん、八重子(やえこ)のことなのだろうが、それにしてもこんなところにまできて……。
 歯痒(はがゆ)かった。
 口惜しかった。
 だが、あいつは精一杯生きた。章介なりに一生懸命生きたはずだ。それならそれで、いいじゃないか。自分にしても誰にしても悔いのない人生なんてあるはずが。いや、悔いがあるからこそ、人生に輝きが……などと、とりとめのないことを考えていると、潤一(じゅんいち)と麻世(まよ)の顔が浮んだ。
 あの林田(はやしだ)道場のことだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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