よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第一章 沖縄からきた娘・前

池永 陽You ikenaga

 宿酔(ふつかよい)の頭がまた、ずきんと痛んだ。
 そんなことにはお構いなしに、診察室のイスに座った徳三(とくぞう)は麟太郎(りんたろう)に向かって一方的にまくし立てている。
「何度もいうようで悪うござんすが、大先生があんなに酒にだらしがねえとは夢にも思いやせんでしたねえ。いやあ、たまげたもんでござんした」
 年は上だが風鈴職人の徳三は、若いころからの麟太郎の喧嘩(けんか)友達である。
「そりゃあまあ、親方。今年は何というか、桜の開花がいつもより早かったから、つい嬉(うれ)しくなって浮かれちまったってこともあるし。俺だって、たまには羽目を外しちまうってことも、やっぱりあるからよ。だから、あの勝負はよ……」
 しぼんだ声を麟太郎が出すと、
「ありゃあ、羽目を外したんじゃなくて、酒に呑(の)まれちまった――そういうことでござんしょう。つまりは修行が足りねえということで。下町育ちの俺たちにしたら、こりゃあもう、男がすたるというか、男が立たねえというか」
 徳三はいかにも嬉しそうに、顔をくしゃりと崩した。
「徳三さん、今日はもう、それぐらいで。時間も時間ですし」
 傍らに立っていた看護師の八重子(やえこ)が、助け舟を出すようにいった。
 徳三は午前の診療時間の最後の患者――といっても週明けで患者が多かったせいか、時間はすでに昼を過ぎて二時になろうとしていた。
「おう、そうだ、そうだ。長っ尻は江戸っ子の恥。すっかり時間の経(た)つのを忘れていた。じゃあ、このへんでよ」
 徳三はどっこいしょと声をかけて、ようやくイスから立ちあがる。
「なら、今日も俺の勝ちということで。またな、やぶさか先生」
 右手をひらひらさせて診察室を出ていく徳三の背中に、
「あの野郎、俺の前でまた、やぶさかなどとぬけぬけと」
 恨みがましくいうが、迫力はまるでない。
 やぶさかとは、診療所の前が緩やかな坂になっているため、近隣の者たちがやぶと坂を合せて親しみをこめていう言葉なのだが――そこはやはり。
「それにあの野郎。風邪をひいたなどといってきやがったが、診(み)てみるとそんな症状などみじんもねえ。わざわざここまで俺をからかいに……」
 と今度は息まいたところで、
「それにしても、相変らずお二人は意地っ張りですね。私たちから見たら、どうでもいいことにこだわりすぎてるというか、何というか」
 呆(あき)れ顔を浮べて八重子が話を遮った。
「親方も俺も、浅草(エンコ)生まれの下町育ち。そこはやっぱり、男の筋というか、自負というか。そこはきちんと押えておかねえとよ」
 麟太郎は、はっきりした口調でいう。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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