よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一章 沖縄からきた娘・後

池永 陽You ikenaga

『田園』に行くと、時間が早いせいか客はまだ誰もいなかった。
「大先生、いらっしゃい」
 カウンターのなかにいた夏希の機嫌のいい声に迎えられて、麟太郎は奥のテーブル席につく。すぐに、お通しとオシボリとビールが運ばれてきて、夏希はそのまま麟太郎の隣に座った。
「ビールで、よかったんですよね」
 と手際よくコップにビールを注(つ)ぐ夏希に、
「それに、何か軽い食い物をよ」
 と麟太郎は言葉を返す。
「軽い物って――サンドイッチか何かでいいんですか」
 麟太郎が軽くうなずくと「はあい、わかりました」と夏希は席を離れてカウンターに戻っていった。
 しばらくするとサンドイッチを盛った皿を手にして夏希がやってきて、
「はい、召しあがれ、当店自慢の玉子と野菜のスペシャル・サンド」
 大げさなことをいって麟太郎の隣の席に、すっと体を入れる。
「ところで大先生。昨日の今日で、大手を振ってここにきたってことは、何か魂胆があるってことですよね」
 イミシンなことをいった。
「いってることの意味が、俺にはよくわからねえんだが」
 サンドイッチをごくりと飲みこみ、怪訝(けげん)な表情を夏希に向ける。
「あら、とぼけちゃって。昨日の暴挙に対して私がどんなふうに思ってるのか――喜んでいるのか嫌がっているのか。それが知りたいがための、偵察」
 噛(か)んで含めるように夏希がいった。
「昨日のことは、あれはやっぱり、暴挙になるのか」
 掠(かす)れた声を出すと、
「暴挙でしょ、やっぱり。どさくさに紛れて力一杯抱きしめられたと思ったら、次は膝枕ですからね」
 夏希は顔中で笑いながらいう。
「しかし、それだけ嬉(うれ)しそうにいうところを見ると、ママはけっこう喜んでいる。そういうことなんだよな」
「もちろん、喜んでるわよ。その分、別料金として、今夜のお勘定に上乗せするつもりですからね。商売繫盛で一件落着」
 満更、嘘(うそ)でもない表情だ。
「別料金なあ……」
 麟太郎は情けない声を出す。
「ところで大先生。昨日の暴挙の本命は、いったいどっちなんですか。ぎゅっと抱きしめたのと膝枕と」
 興味津々の表情を夏希は浮べた。
「そりゃあ、ママ。膝枕のほうだよ。抱きしめたのは体を支えるための、行きがけの駄賃のようなもんだよ。俺はロマンチストだからよ」
 掠れた声でいうと、
「あら、いやらしい」
 ぽんと言葉が返ってきた。
「ロマンチストって、スケベの代名詞なんですよ。特に自分からその言葉を出す人は」
「ええっ、そんなことは、ないんじゃねえか」
 思わず、抗議の声を麟太郎は出す。
「問題はその横文字。心に疚(やま)しいところがある人は、みんな曖昧な横文字を使ってごまかしにかかる――そういうことになってるんですよ、世間では」
「なるほどなあ、横文字はごまかしの代名詞か。一理はあるかもしれねえな」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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