よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一章 沖縄からきた娘・後

池永 陽You ikenaga

 夏希が胸を張るようにいったとき「いらっしゃいませ」というアルバイトの理香子(りかこ)のよく通る声が聞こえた。
 つられて入口のほうを見ると、なんと入ってきたのは風鈴屋の徳三(とくぞう)である。徳三も麟太郎の姿を目にして、そのまま奥の席にやってきた。
「おう、大先生、奇遇じゃねえか」
 威勢のいい声を出して、麟太郎の前のイスにどかっと座りこんだ。
「奇遇といえばそうには違えねえが、親方こそなんでこの店に。今まで一度も見たことがないけれど……」
 ぽかんとした表情で麟太郎がいうと、
「惚(ほ)れたのよ――」
 臆面もなく、ずばりと徳三はいった。
「えっ、惚れたって誰に……」
 嫌な予感が麟太郎の胸をよぎる。
「そこの綺麗(きれい)な姐(ねえ)さんによ。だからこうして、のこのことよ」
 にまっと夏希に笑いかけた。
「まあ、嬉しい。親方、本当にありがとうございます」
 立ちあがった夏希が、丁寧に徳三に頭を下げる。
「まあ、立ち話も何だからよ。まずは座ってよ、姐さん」
 徳三は夏希を座らせ「とりあえず、ビールをよ」と鷹揚(おうよう)にいう。夏希が声をあげると、理香子がビールとお通しとオシボリを持ってきて、徳三の前に手際よく並べる。
「ありがとよ」という徳三のコップに夏希はビールを注ぎ、徳三はそれを一気に飲む。
「まあ、いい飲みっぷり」
 歓声をあげる夏希に、
「昨日の花見で姐さんを見て、俺の体がぞくっと震えてよ。それでまあ恥も外聞もなく、この店へ押しかけてきたって訳だ。これからも、ちょくちょく寄らせてもらうつもりだから、よろしく頼むよ、綺麗な姐さん」
 しゃあしゃあと徳三はいった。
「こちらこそ、今後ともご贔屓(ひいき)のほど、よろしくお願いいたします」
 深く頭を下げる夏希に、
「いやあ、最初に姐さんの立ち姿を見て、驚きやしたよ。今時珍しい、小股の切れ上がった、いい女がここにいる。こりゃあ、まさしく深川の羽織芸者そのものじゃねえかってね――そう思ったら嬉しくなってね。まさに、眼福でござんした」
 そういえば文字通り、昨日夏希は黒の羽織を小粋に着こなしていたのを、麟太郎は思い出す。
「あい、芸は売っても体は売らぬ。深川は辰巳(たつみ)芸者の心意気でござんす」
 ふいに夏希が芝居がかった台詞を口にして、徳三を流し目で見た。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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