よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一章 沖縄からきた娘・後

池永 陽You ikenaga

「おうっ、それだ、それ」
 はしゃいだような声を徳三はあげ、
「お前さん方、本所(ほんじょ)七不思議というのを知っているかな」
 したり顔でこういい、夏希と麟太郎の顔をじろりと見た。夏希が慌てて首を横に振るのを見極めて、
「一つ人呼ぶ、おいてけ堀に。二つ、吹いても消えずの行灯(あんどん)。三つ、水面(みなも)に片葉の葦(あし)が……」
 唄うように渋い声を張りあげた。
「四つ、夜な夜な狸(たぬき)の囃子(はやし)。五つ、生き血で足洗い屋敷。六つ、迎える一つ提灯(ちょうちん)。そして最後が――」
 勿体(もったい)ぶったいい方で夏希を凝視して、
「七つ流し目、蛇女……」
 殊更、渋い声でいい放った。
「ええっ、私は蛇女なんですか」
 すぐに夏希が抗議の声をあげた。
「早とちりはいけねえよ、姐さん。蛇女ってえのは、古(いにしえ)の昔より絶世の美女の代名詞で、怖いほどに美しい、美しすぎるから怖いという意味でござんしてね。まさに、夏希ママにぴったりの言葉だと、あたしには思えるんですがね」
 誉(ほ)めちぎって、にまっと笑った。
 ちゃんと夏希の名前も覚えている。
 が、諸説あるにしても本所七不思議に、蛇女などというものが……ひょっとしたら夏希の気を引くための。冗談めかして口に出したが、徳三は本気で夏希に惚れたのでは……そんな思いが麟太郎の胸をふっとよぎった。
「ところで、姐さんも知ってるように、本所というのは、ここからつい目と鼻の先の吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷のあったあたりで……」
 日頃は憎まれ口しか叩(たた)かない徳三が、夏希を前にして雄弁にふるまっていた。
 耳に聞こえてくるのは徳三の声だけで、優しさに触れたくてここにきた麟太郎は本所七不思議ではないけれど、おいてけ堀の状態だった。
 それならそれでまあいいかと、麟太郎の心は、例のあの件を反芻(はんすう)する。突然訪ねてきた比嘉(ひが)美咲の件だ。

「あなたが私の、お父さんなんですね」
 美咲がこういった瞬間、周りの時間が停止したように固まった。
「今……」
 麟太郎はごくりと唾を飲みこんだ。
「今、何ていったんだ」
 言葉を押し出した。
「私のお父さんは、真野(まの)先生だと……」
 美咲は麟太郎の目を真直(まっす)ぐ見て、はっきりした口調でいった。
「ちょっと待ってくれ、ちょっと。まず、話を整理しようじゃないか」
 麟太郎は両手で美咲を制するような格好をして、頭を忙(せわ)しなく回転させる。
「比嘉という苗字(みょうじ)と、その顔立ちからいくと、あんたは沖縄の人なのか」
 美咲は目鼻立ちのはっきりした、色はやや浅黒いほうだが、典型的な沖縄美人の顔をしていた。
「はい」と美咲は首を縦に振り、
「私の大伯父さんは、比嘉俊郎(としろう)です。真野先生もご存知のはずの」
 具体的な名前を出した。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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