よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二章 家族会議・前

池永 陽You ikenaga

 元子は聴診器を胸の下に当てる潤一に、ひとしきり嬌声(きょうせい)をあげて体をくねらせてから、こんなことをいったという。
「昨日は大変だったんですってね、若先生」
 ちらりと流し目で潤一を見てから、
「何でも若い女の娘(こ)が、大先生を訪ねてきたとか。しかもその女の娘は、今から二十年ほど前の大先生の落し胤(だね)とか」
 甘ったるい口調でいい放った。
「えっ、元子さん。そんなこといったい誰から聞いたんですか」
 さすがに潤一もこの言葉には驚き、すぐにこう質(ただ)してみると、
「噂(うわさ)ですよ、噂。町内のみんながこういってるんですよ。しかし、いいですねえ、殿方は――私なんか女盛りだというのに、そんな浮いた噂なんかひとつも」
 いかにも残念そうにいったという。
「そんなことを、元子さんが」
 話を聞いた麟太郎は太い腕をくんで、考えこむ。
 やってきた美咲を麟太郎、八重子(やえこ)、麻世の三人がかりで診療所内に連れこむところを近所の誰かが目撃し、さらに田園で麟太郎が「二十年ほど前に……」と口にしたことを夏希が、ぽろりと漏らし、それがひとつに合わさって近所の連中の耳に。
 そうとしか考えられなかった。
「しかし、凄(すご)いな、この界隈は。まったく下町ってえところには、プライバシーも何もあったもんじゃねえな」
 ある意味感心しながら、こう麟太郎が口にすると、
「そんなことは江戸の昔からわかっていたことで今更――いや、そんなことじゃなくて町内の噂の真相はどういうことなのか。俺はそれが知りたくてこうやって」
 たたみかけるように、潤一がいった。
「さあ、そこだ」
 ぼそりと麟太郎はいい、
「それに関して、これから家族会議を開こうと思う。それがすんだら、みんなで仲よく夕飯をいただこう」
 ぴしゃりといい放った。
「あっ。家族会議なら、私は遠慮して夕ごはんの仕度を」
 と席を立ちかける麻世に、麟太郎はゆっくりと口を開く。
「莫迦(ばか)をいうな。お前がいなくて家族会議が成り立つわけがねえだろうが。お前はうちの立派な家族だってことを、金輪際忘れるんじゃねえ、麻世」
 これだ。これがいいたくて麟太郎は、わざわざ家族会議などという、死語に近い言葉を持ち出したのだ。
「それは……」
 立ちかけた麻世の体がすとんと、イスの上に落ちた。心なしか、両目が少し潤んでいるようにも。
「そうだよ、麻世ちゃん」
 すかさず、隣の潤一が口を開いた。また、余計なことをいわなければいいがと思っていると……。
「この家でいちばん威張っているのは、麻世ちゃんなんだし。それにこの先、本物の家族になるかもしれないし」
 ここで潤一はちらっと隣に視線を走らせるが、むろん麻世は知らん顔だ。
「だから、ここは堂々と、この場にね」
 みごとに余計なことを口にして、嬉(うれ)しそうに笑った。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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