よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二章 家族会議・前

池永 陽You ikenaga

 その夜『田園』に出かけると、すぐに夏希が寄ってきて、
「いらっしゃい、大先生――何だか大変なことになったようですね」
 こんなことをいってから、
「ちらっと小耳に挟んだところでは、綺麗な若い子が大先生を訪ねてきたとか。それってやっぱり、二十年ほど前のあれですよね」
 興味津々の面持ちで麟太郎の顔を見た。
「それはそうなんだが、その、二十年云々(うんぬん)という話は、夏希ママの口から町内に広がったんだよな」
 恨みがましくいってやると、
「ごめん、大先生。あのあと、つい楽しくなって口が滑ってしまって。まったく私、どうかしてる。水商売失格みたい」
 両手を合せた。
「私にしたら、大先生はこんなにモテるということをいってみたくなって、それでつい。大いに反省しています」
 こうまでいわれれば、黙らざるを得ない。本当なら「この分だと、銀座に戻れるのはまだまだ先のことだな」といってやりたかったが我慢した。が、口の堅かった夏希が客の話を喋(しゃべ)ってしまうということは――それだけ夏希が、この浅草という土地柄に馴染(なじ)んでしまったということにもなる。やはり銀座は、ほど遠い。ひょっとしたら、もう無理なのかも……。
「で、夏希ママが喋ったという相手は、いったい誰なんだ」
「大先生が帰ったあと、徳三(とくぞう)さんにぽろりと」
 徳三だ。徳三が夏希から聞いて、それがぱっと町内中に――これはまあ、しようがない。何たってここは浅草だ。
「で、綺麗な娘さん云々というのは、どこの誰から」
 と訊くと、何とまた「徳三さん」という答えが夏希の口から飛び出した。
「えっ。喋った相手も聞いた相手も、徳三親方なのか」
 驚いた表情を浮べると、
「はい、ついさっき」
 夏希は目顔で奥の席を指した。
 目をそっちに向けると嬉しそうな顔で徳三が手をひらひら振っている。
「あの野郎、またきてやがるのか」
 思わず声を出す麟太郎に、
「なら、一緒のお席ということで。大先生はビールでよかったんですね」
 そういって夏希はカウンターのほうへ戻っていき、麟太郎は奥にいる徳三の席に向かい、すっと腰をおろす。
「聞いたぞ、聞いたぞ、大先生。隠し子だってな、麟太郎。いやあ、あやかりたいねえ、羨(うらやま)しいねえ」
 囃(はや)し立てるように徳三はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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